鎌倉のとっておき〈第7回〉 頼朝の墓、希義の石
頼朝は、八人もしくは九人兄弟の三男だったと言われています。その中で、由良御前の子、つまり頼朝の同母弟であることが確認されているのは希義ひとりです。希義については、正確な出生年も、平治の乱以前の頼朝との交流についても記録がありません。
平治の乱の後の1160年、頼朝が伊豆へ流刑となった日、希義は土佐へ流刑となりました。その後、ふたりはそれぞれの地で、長い年月を過ごすことになります。
諸国の源氏へ決起を促す以仁王の令旨が発せられ、いまだ体制維持をはかりたい平氏の圧力が強まる中、1180年 頼朝は意を決し伊豆の目代に夜討ちをかけます。
一方、土佐では希義が蜂起しますが、こちらは平氏の家人に打ち取られ非業の死を遂げます。未だ西国においては平氏の力が勝っていたのだろうと思われます。
平氏が滅び、頼朝の時代となった1185年、 ひとりの僧が土佐の地より希義の遺髪を首にかけ、鎌倉を訪れて頼朝に面会します。頼朝は、希義の魂が来てくれたと感激し涙を流したといいます。異母弟たちと良好な関係を築くことができなかった頼朝にとって、希義とはどんな存在だったのでしょうか。
時は下り、1995年、有志の方々の手によって、高知市介良にある希義の墓の石が、頼朝の墓に添えられました。ふたりは、800年の時を超えて、再会を果たしたのでしょうか。
(石井卓郎)
|
|
|
|
|
|