第二次世界大戦の終結から今年で70年。市内七里ガ浜東在住の渡辺喜久代さん(77)は、戦地の父に母が書き続けた「ラブレター」を大切に保管してきた。渡辺さんは「極限の戦場でも手紙を手放さなかった父。それだけ大切なものだったのでしょう」と話す。
母から父へ114通
渡辺さんは福井県出身。1937年、軍人だった父・山田藤栄さんが中国東北部の戦地に向かった時、渡辺さんは母・静枝さんのお腹の中にいた。転戦する父に、母は手紙を書き続けた。渡辺さんは「結婚間もなかったから淋しくて仕方なかったのでしょう」と母の心情を思いやる。
残された手紙には「恋しいお父様へ お父様のことは一刻も忘れることができず。淋しい」「近く大開戦らしいですね。元気で活躍して帰ってきてくださるのよね」などと記されている。「あまりにストレートな表現で、自分が還暦を迎える頃まで正面から向き合えなかった」と渡辺さんは笑って振り返る。現存している手紙は114通だが「実際はもっと多かったのでは」とも推測。「戦地の父がこれだけの手紙の束を抱えて移動していたなんてなかなか信じられない。でも、それだけ大切な家族の絆だったんでしょうね」。
40年から4年ほど、満州で家族揃って暮らした時期もあったが、44年に藤栄さんのフィリピン・ミンダナオ島への転属が決まると、母子は日本へ引き上げた。
その後、藤栄さんは陸軍独立歩兵第353大隊の大隊長として約1200人を率い、現地で終戦を迎え、46年9月に復員した。
手紙は娘の手へ
「目がおちくぼみ、がいこつみたいな顔で帰ってきました」と渡辺さんは復員時の父の様子を話す。祖母が「藤栄、帰ってきたからといって大きい顔をするな。隣の子は戦死しているんだ」と言ったのが印象に残っているという。
渡辺さんが初めて両親の手紙を目にしたのはこの時。弟妹と一緒に父のリュックから干しぶどうや氷砂糖を引っ張り出した際に、底に分厚い紙の束を見かけていた。中学生になる頃、押入れから「故郷之思出」と題した紙の束を見つけた時、それが母から父への手紙だったことに気がついた。その後も父は、転居の度に手紙を保管し直していたという。
渡辺さんは就職のため、18歳で上京する。その際、「なぜか荷物に滑り込ませていた」と天井裏に隠してあった手紙を、父に黙って持ち出した。「大切にしていたもののはずなのに、父は無くなった手紙について何も言いませんでした」。1997年に藤栄さんが他界した際には「お棺に入れてあげよう」と葬儀に手紙を持参したものの、結局思い直し、これまで保管し続けてきた。
両親の歩みが一冊に
7年ほど前、渡辺さんは知り合いのライター・稲垣麻由美さんに両親の話をしたところ「ぜひ書籍化させて欲しい」と打診された。
稲垣さんは軍歴証明書など当時の資料を収集。渡辺さんの証言などをもとにまとまった書籍は、今月中にも発売される予定。「本になる過程で両親の足跡に改めて向き合うことができた気がします」と渡辺さんは話す。
復員後の藤栄さんが、戦争のことを口にすることはなかった。ただ一度、庭で竹刀を手に素振りをしていた時に、自分の手を見つめながら「刀で人を切った時の重みが忘れられない」と、語ったことがあったという。
「74年に静岡県の洞善院というお寺にミンダナオ島戦死者のための慰霊碑が建てられた後、行われた慰霊会で『どうして部下が死んで指揮官が生きているんだ』となじられていた、と聞きました。父は最期まで戦争について語りませんでしたが、死ぬまで戦争の記憶と戦い続けていた。そのことは父の表情からわかっていました」。渡辺さんは静かに語った。
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