鎌倉のとっておき <第41回> 鎌倉と二つの北条氏
鎌倉に縁のある北条氏というと、鎌倉時代の北条時政から始まる北条氏を思い浮かべる方が多いだろう。この北条氏は大いに繁栄したが、元弘三年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めにより、主要な一門と最後の得宗北条高時が東勝寺で自刃し、ほぼ滅亡した。
鎌倉はその後、関東公方の足利氏や関東管領の上杉氏が東国政治の拠点とするが、戦国時代に入ると別の北条氏が鎌倉と関わりを持つようになる。伊勢新九郎盛時(北条早雲)を祖とする小田原北条氏である。小田原北条氏は、現在の大船駅西方に位置する玉縄に堅固な城郭を築き、三浦半島や江戸・川越、さらに関東全域へと進出していった。小田原北条氏は玉縄城を重要な拠点と考え、信頼の置ける人物を城主とした。玉縄城主の初代氏時は、小田原北条氏二代氏綱の弟にあたり、二代為昌は小田原北条氏三代氏康の弟にあたる。さらに歴代城主は小田原北条氏と婚姻関係を結び、強い繋がりを保った。
このように小田原北条氏の元で活躍した玉縄北条氏も、豊臣秀吉の小田原攻めにより、玉縄城を明け渡しその統治を終える。その後、城は江戸時代に廃城となり、現在本丸跡には学校が建ち、普段は入ることができない。しかし玉縄北条氏ゆかりの史跡は、今も大船地域周辺に数多く残っている。菩提寺である龍宝寺や大長寺は、広大な境内を有し当時の興隆を感じさせてくれる。また太鼓櫓跡や七曲坂などの遺構も本丸跡付近に存在し、地名の城廻や陣屋坂上からも、その歴史を偲ぶ事ができる。 浮田定則
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