鎌倉のとっておき 〈第53回〉 鎌倉幕府の裁許〜関東下知状〜
中世鎌倉は源頼朝の開府以来、人や物が集まり、華やかな文化が開いた。たくさんの人が鎌倉に集まったのは、商業活動や鎌倉新仏教・禅宗の興隆もあるが、もっと根底的な理由がある。鎌倉幕府の持つ相論裁許の力である。鎌倉幕府の相論裁許の範囲は基本的には、御家人や地頭に対しておこなうものであった。しかし承久の乱や元寇などの戦いを経て、御家人達の活動が西国に広がると、その範囲は全国に拡大した。例えば鎌倉にゆかりのある「十六夜日記」の著書阿仏尼は播磨国(今の兵庫県)細川庄の地頭職に関する相論を訴えに鎌倉へやってきた。
鎌倉幕府が裁許を示した文書は、文書末尾が「下知如件」で結ばれている。これはあくまで鎌倉将軍の命令を執権・連署(北条氏一門が世襲)が承り、下達するという形式をとるからである。これを関東下知状という。現在でも日本各地に鎌倉幕府が発給した関東下知状が残る。それらはかつて鎌倉幕府に訴えが持ち込まれ、鎌倉に滞在して裁許を得た文書である。
このように日本各地から多くの人が鎌倉に相論の裁許を得るため集まって来た。中世都市鎌倉の繁栄は、彼らの滞在によって様々な情報や各地との文化交流、消費が根底にあったのである。
浮田定則
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