鎌倉のとっておき 〈第58回〉 鎌倉にまつわる元号
皇位の継承に伴い新元号が施行された。
これは昭和54年に制定された元号法に基づき、「皇位の継承があった場合に限り改めること」と規定されている。元号改元は明治時代以前、皇位の継承以外にも兵革・飢饉・病疫の流行など、事あるごとに行われていた。
鎌倉にまつわる元号を探ってみると、源頼朝が鎌倉に入った1180年は「治承」であった。「治承」は翌年「養和」と改元。しかしこの改元は、平氏政権の主導によって改められたもので、頼朝は反平氏の立場から「治承」を使い続けた。1182年に平氏が都落ちをすると、頼朝は後白河院の宣旨を賜い、流人の身を解かれることになった。朝廷に認められた頼朝は以後、朝廷の改元に倣った。
また元号は大寺が創建されると寺の名前として付けられることもあった。例えば京都の仁和寺や建仁寺などである。鎌倉では建長寺が「建長」の元号を賜った寺だ。吾妻鏡によると建長3年11月8日に事始が行われ、建長5年11月25日に落慶供養が執り行われている。このように北条時頼が精誠を凝らし、造営を行った大寺は、元号を冠し「建長興国禅寺」と名付けられ、現在も天下泰平を祈り続けている。
浮田定則
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