いよいよ今年7月に開幕する東京五輪・パラリンピック。56年前に開催された前回大会で、聖火リレーの正走者を務めた松澤和通(かずみち)さん(73・長谷在住)も心待ちにする一人だ。生まれ育ったまちを必死で駆け抜けた青春時代を振り返り、「スポーツで多くの人に興奮と感動を届けてほしい」と期待を込める。
突然の大役
「聖火リレーに出てみないか」。1964年春、鎌倉学園3年生だった松澤さんは、教諭から突然、こう告げられた。
恵まれた体格を生かし、バスケットボール部のキャプテンとしてチームを引っ張るなど、体力には自信があった松澤さん。「何をするのか細かいことは分からなかったけれど、とりあえず『協力します』って二つ返事でした」。当時配布された聖火リレーの名簿には、15歳から20歳の若者が名を連ねる。同校からは副走者や随走者など他にも30人ほど声がかかり、その中で先頭に立って走る正走者は松澤さんを含め3人だけだった。
松澤さんが任されたのは、長谷駅から一の鳥居までの約1・9Kmの区間。市内では4番目の走者で、最終走者に聖火をつなぐ大役だった。
本番直前の練習会は、市内の道路を交通規制し、実際に使用するトーチに火をつけて行われた。「大量の白煙と”ゴォーッ”っという炎の音にびっくりした。走る速度は早くても遅くてもだめだし、トーチを持つ位置にも決まりがあったりして大変だった」
家族や友人に見守られ
迎えた本番。長谷駅前は大群衆で埋め尽くされていた。「人はたくさんいるのに不思議と”シーン”と静まり返っていて、まるで神事が始まる前のようだった。不安と緊張で胸が張り裂けそうで、前走者を待つ時間がとても長く感じた」
沿道で家族や友人が見守る中、日の丸と五輪のエンブレムが描かれたユニフォームを着て、無我夢中で走り切った。わずか10分ほどだったが、最終走者にトーチを託した瞬間に「終わった」とようやく肩の荷が下りた。
トーチと歴史の重み
その後、東海大学に進学。一時は次の開催となったメキシコ五輪への出場を目指していたが、「上には上がいて限界を感じた」と大学3年でバスケから一線を退いた。
卒業後、実家の書店「松沢松林堂」を父親から引き継ぎ、4代目店主として約50年間働いた。店は2年前に閉店。現在は長谷東町町内会会長を務め、安心・安全なまちを目指している。
家中には、聖火ランナーとして走る自身の写真が並ぶ。「写真を見ると、当時の光景がよみがえってくる。たくさんの人からの声援や白煙、不安、緊張それに達成感も。そんな何とも言えない思いを忘れないために飾っている。前回大会で、日本代表として出場した選手たちは私に『スポーツに国境はない』ということを教えてくれた。また新しい名場面が生まれるんだろうね」。56年間、大切に保管してきたトーチをそっと出し、両手に歴史の重みを感じながらそう語った。
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