鎌倉のとっておき 〈第88回〉 源氏の救世主、現る!
武士の頂点を極めた源頼朝の人生最大のピンチは、1180年平氏討伐で挙兵後、大敗した石橋山(小田原市)の戦いにあった。
頼朝は山中を敗走し洞窟に身を隠したが、平氏側だった梶原景時(かげとき)に見つかってしまう。しかし、景時は他の追手に「ここには誰もいない」と伝え頼朝を逃がしたという。
海を渡り安房(千葉県)に逃れた頼朝は、そこで千葉氏や上総氏など有力な武士を味方につけ、景時もこれに加わるなど軍勢を強化していった。
その後、景時にも支えられた頼朝は、平氏討伐を成し遂げ、鎌倉に幕府を開いたのである。
景時は知略に優れ教養も豊かだったことから、頼朝の信頼も厚く幕府でも重用された。景時も、武功をあげた上総氏を幕府の体制強化のため亡き者とするなど辣腕を振るった。
頼朝亡き後、景時は幕府運営を合議する宿老(13人)として、引き続き力を発揮しようとしたが、その辣腕ぶりから疎(うと)まれ、鎌倉を追放された後、西へと向かう途中、駿河(静岡県)にて最期を遂げたのである。
時を経て、建長寺での施餓鬼会(せがきえ)(極楽往生を願う法会)の終了直後のこと、景時が亡霊となって現れ、その終了を大いに残念がったとのことから、以降、寺では景時だけの施餓鬼会も同日に行うこととしたという(「三門梶原施餓鬼会」)。
もしも景時がいなかったならば、鎌倉武士の時代も来ることはなかったのかもしれない。
石塚裕之
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