鎌倉のとっておき〈第32回〉 お酒にまつわるエトセトラ
今も昔も宴席には欠かせない「百薬の長」”お酒”。
その昔は、祭礼や慶事の際、朝廷や僧など一部の特権階級が集団で飲む程度であったようだが、平安時代には酒つくり文化も発展し、鎌倉時代には庶民にもかなり普及していた。
当時の”お酒”は主ににごり酒。酒宴ではまず、決められた席順で座り一つの杯に注ぎ手が順にお酌しながら、上座から下座へと一巡(一献)させ、さらに二献、三献と重ねていった。同じ杯の酒で、ともに酔い「一味同心」となることで、主従の結びつきにも役立っていたようだ。「まわし飲み」の起源でもある。
まわし飲みの後は一人ずつ杯が配られ、席順にこだわりなく各自好きなだけ酒を飲み、肴とともに歌舞のひとさしも添えられたと聞く。中世鎌倉では、酒で身を滅ぼし、泥酔して事をおこすやからも多かった。そのため「味噌を肴に酒を飲んだ(質素の意)」とのエピソードもある5代執権・北条時頼は酒の販売を禁止した。禅宗の影響もあったのだろう。
幕府の歴史書『吾妻鏡』には、当時の鎌倉の民家全体で3万7274個の酒壺があったが、各戸自家用の1壺を除きすべて破壊させたとの記録も残る。
”お酒”の功罪は様々だが、吉田兼好は『徒然草』の中で「酒で財産を失ったり、病の多くは酒が原因であり、うとましいもの」とする一方、「お近づきになりたかった人と飲むうちに、段々打ち解けていくのも嬉しい」と綴っている。
夜ごと名だたる武士たちの酒宴から歌舞の声も聞こえてくる、鎌倉はそんないにしえの情景を思い描かせてくれる街でもある。
石塚裕之
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