ステンレス加工一筋50年、筋金入りの職人が矢畑にいる。青木清さん(75・浜之郷在住)がその人。これまで国を代表する大事業に携わったり、大手企業からの仕事を中心に手掛けてきたが、コロナの影響で仕事が急減する中、依頼に応じて生活用具を製作するなど現役を貫いている。
幼少の頃からモノ作りが好きで、相模工業大学附属高校(現・湘南工科大学附属高校)機械科を卒業後、建築デザインを学ぶため、東京の専門学校に進学するも中退。後に、ステンレスの分野が業界的に躍進すると信じて独学で加工を学び、20歳で「青木ステンレス工業」を矢畑に立ち上げ、独立を果たす。
主に厨房機器(流し台)を専門とし、市内の学校の手洗い場作りから、24歳の頃にはあさま山荘事件に出動した警察官に食事を提供する車両のシステムキッチンの製作まで、さまざまな仕事を請け負った。東京タワーの手すりを手がけたこともある。
創業当時は溶接から展開、仕上げの研磨まで全て一人による作業だったが、ステンレスなどの薄い板金素材を曲げる際に使う機械・ベンダーを導入してからは、外壁パネルの製作など建築関係の仕事が増加した。
順風満帆の経営だったが、バブル崩壊後は徐々に仕事が減った。追い打ちをかけるように13年前には脳梗塞を発症。余命2カ月を宣告された。それでも、1年間の療養で驚異的な回復を見せ、現場に復帰。「この職は天職だね」と笑う。
衰えぬ製作意欲
「機械が故障しない限り続ける、80までは」とまだまだ製作意欲は満々。得意の図面作りから設計、施工に至るまで一手に担うスタイルは今も昔も変わらない。企業からの依頼は減ったが、培った技術力で椅子やスマホスタンド、オブジェなども製作するようになった。とりわけ、「ステンレス製品は意匠的なものが多い」とし、完成度の美しさにはとにかく気を遣う。
「ステンレスは、自分を表現するための大切な存在」。これからも真剣に向き合い、「誰からでも頼まれたら魂込めて作るよ」。不屈の職人が天職を全うする。
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