11月1日で寒川町が町制施行80周年を迎えた。これまで町制の節目ごとに記念行事が開催されてきたが、コロナ感染防止のため、功労者の表彰など最小限にとどめている。
人口は約7倍に
明治22年に11ヵ村が合併した寒川村は、太平洋戦争終結の5年前(昭和15年)に町として再出発した。寒川町が船出してまもなく、広大な軍需工場の相模海軍工廠が一之宮地域に開庁した。町内外からの徴用や学徒動員など3千人の人々が働いたとされ、化学兵器などを製造していたが終戦とともに廃止された。
町制20周年を迎え、岡田には県営住宅が完成、相模川で新幹線の橋梁工事も始まった。町は田端の一部を工業用地に変え、企業誘致を成功させる。この工場群は町振興の大きな力になった。
田畑には幹線道路が伸び、行き交う車の数も増加。一方で利用者が低迷していた相模線の寒川〜西寒川駅間は昭和59年に廃止され、現在の一之宮緑道や八角広場に。かつてのディーゼル車も電化し本数が増えた。相模川は終戦前から神川橋が唯一の橋だったが、平成10年には銀河大橋が開通。町制70周年の翌年(平成23年)には町の玄関口である駅前広場も完成した。2年後には圏央道のICもオープンし、その後首都圏や県西へのアクセスが劇的に向上した。
町制100周年となる2040年に向け、さらに変化しそうな風景がある。一つが寒川南ICの周辺地区で、複数の企業誘致を促す計画が着々と進行中だ。倉見駅周辺には新幹線新駅を誘致して平塚側と新橋でむすぶ「ツインシティ構想」も。湘南台駅からの「いずみ野線」や藤沢からの幹線道も延びる構想だが、町が単独で進められない現状もある。
町の発足当時6772人だった人口は昭和40年代に1万6千人台に、第二次ベビーブームの昭和50年頃に3万人台、80年経った今は当初の7倍以上が暮らす町に成長した。人口は今後減少する見通しで、移住定住の促進は欠かせない。町制80周年の今、町はブランドロゴやストリートスポーツの聖地化などを戦略に加えている。
20年後は100周年「新化」に向けて木村町長に聞く
▼寒川町が町制80周年の節目を迎えましたが、ご感想をお聞かせ下さい。
寒川町が誕生した当時の人口は約6700人でした。昭和39年に田端に寒川工業団地が造成されて企業が進出し、それが町の財政基盤をなしています。町が財政的にも恵まれ、住んでよし、交通利便性良しの町になったのは、半世紀以上も町内の企業が頑張ってきたおかげです。だからこそ今年始まる、寒川南インター周辺の組合施行による区画整理は第2期の産業形成として取り組みます。企業が進出すれば従業員も移り住み、人口増にもつながります。
▼町は100周年を視野に、新総合計画策定に動いています。「つながる力で新化するまち」がキーワードですね。移住促進にも取り組みますか。
新しい住民の方々と以前から住んでいる方々との新しい結びつきが町活性化の鍵です。そして町の地域資源を生かし、新しい町に新化しよう、という考えです。リモートワークが増えましたが、東京などから寒川を含めた地方への移住を考える人は今後、増えるでしょう。(観光などで町を訪れる)交流人口を、より町と関わりの深い「関係人口」に変えたいです。アークリーグやストリートスポーツの発信とともに、町固有の歴史や伝統文化を、新しくやってきた人々に伝えなければ。町民の皆さんにはぜひ、町歩きを楽しんで頂きたい。四季の移り変わりや町内の企業や農業について、他の町にはない個性に出会ってほしいです。
▼町制40周年当時は、町長が役場職員として就職された頃です。40年前の役場周辺の雰囲気はどうでしたか。
40年ほど前の役場周辺は、田園風景が広がり、中央公園も田んぼでした。人口も毎年1700人ほどのペースで増えていたころです。寒川駅周辺も今のように区画整理される前で、広い道もなかったせいか、通勤する人々の流れも賑やかに見えました。会社帰りに寄れる食堂や立ち飲みの酒屋さんも多かった。相模線はまだディーゼルの頃で、列車の到着時間に合わせて飲む人もいました。私が入った当時の役場は、近隣市職員との交流も盛んで、野球大会などもあり、楽しい公務員時代を過ごした気がします。
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