幸町在住の冨田フサ子さん(92・旧姓=足立)は15歳の時に、平塚空襲を経験した。冨田さんは当時、平塚海軍共済組合病院(海軍病院)の看護師で、伊勢原分院に患者を避難させるなど奔走した。「怖かった。無我夢中でした」と話す。
4姉妹の末っ子として港地区に生まれた。父は辻堂にある日蓮宗本立寺の僧侶で、行事も多く賑やかな幼少期を送った。
須賀尋常高等小学校在学中の身体検査で海軍病院に足を運ぶと、そこで見た看護師に強く憧れた。胃がんを患っていた母を入院させたいという思いもあり、家族に黙って海軍病院の入社試験を受け合格。寄宿舎に入り、母を入院させることもできたが、1945年7月、母は亡くなった。
外科の外来に勤務。灯火管制が敷かれ真っ暗の中「攻撃されるかも」という恐怖心から、明かりが漏れていないか院内を確認して回った。同年5月の横浜大空襲は、病院の2階から眺めていた。火傷を負い歩いて病院に来た人や、妻と子どもを亡くして「敵を討ってやる」と叫ぶ男性も見た。
「僕を置いて逃げて」
平塚空襲のあった7月16日、冨田さんは同僚数人と担架を担ぎ、ギプス等をはめている重症患者と伊勢原分院まで逃げた。「看護婦とはいってもまだ15歳で子どものようなもの。患者さんが、あっちだこっちだと道案内してくれました」。背後に空襲の脅威を感じながら進んでいると、患者に「看護婦さん若いから、僕を置いて逃げてくれ」と頼まれたが、冨田さんに迷いはなく「死なばもろともです」と答え、道を急いだ。
ほっとして涙
やっとの思いで辿り着いた伊勢原分院では、出迎えてくれた病院職員の顔を見て、「ほっとして涙が出た」という。焼け野原を歩き、寄宿舎ではなく自宅に戻ると、家は焼け落ちていたが、父や姉たちと再会できた。「父はお寺から平塚に向かっている間、誰か死んでいるかもと思っていたそう。本当に運が良かった」と冨田さん。鉄釜に入れておいた米が、空襲の火で炊けており、火の手の凄まじさを感じた。
海軍病院はまもなく進駐軍に接収され、アメリカ人兵士が出入りするようになった。持ち込まれた肉やじゃがいも入りの大きな缶詰は、職員も持ち帰りが許された。
戦後の厳しい時代を憩うため、青年団の一人として寿座(現・平塚信用金庫)でハーモニカを演奏した清太郎さんと出会い、結婚をきっかけに離職。32歳で復職し、定年まで勤めあげた。
冨田さんは「もう体験を話せる人は少なくなってしまったけれど、子どもたちに、戦争はいけないことなのだと伝えたい」と話していた。
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