二宮町山西在住の善波喜代治さん(91)は、二宮小学校在学中に戦争を経験した。
4人兄弟の末っ子で、終戦時小学6年生。長兄、次兄は出征し、三兄は平塚の海軍火薬厰に勤めていた。「僕は麦踏みをしたり、枯れ草をとったり」。米軍が現在の大磯ロングビーチ近くの浜から上陸することを想定し、勤労奉仕として大磯町生沢に戦車を足止めするための堀を掘ったこともあるという。
一番怖かったのは、機銃掃射にあったこと。押切川河口付近の海岸で海水から塩を作っていた兵士を友人と手伝った時、戦闘機P51が近づいてきた。「逃げろと兵隊さんは言うけれど、海岸じゃ隠れるところもない。幸いよく遊んでいた場所だったから土地勘があり、押切橋の下へ一目散に駆けた」。間一髪で逃げ切ったが、橋に突っ込んでくると錯覚するほど近い戦闘機が、今もまぶたに焼きついている。
「先生」は特攻隊へ
1945年4月、沖縄周辺で特攻隊として命を落とした忘れられない「先生」がいる。善波さんが3年生の頃、4カ月だけ教わった志澤保吉さんだ。
志澤さんは朝、まだ温かい児童の弁当を集め、冷えないよう大きなコートで包んでくれた。音楽の授業では、机を下げて生徒たちを床に寝転がすと、オルガンを弾いて聞かせてくれた。戦争の足音が聞こえてきた時期だった。「先生なりに楽しませようとしてくれたのかも。ユニークで、優しい先生だった」
次兄は満州で終戦を迎えた後、帰国することなく病没した。戦争体験の語り部を何度も引き受けているが、時が経つにつれ「悲惨さはちゃんと伝わっているか」と不安に思うことも。「戦争を知らない世代の人にも、自分ごととして考えてもらいたい」と話していた。
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