明治150年記念連載 大磯歴史語り 第20回「寺内正毅【3】」文・武井久江
ビリケン像ですが、明治41年(1908)アメリカの女流芸術家・フローレンス・プリッツが夢で見た神様の姿を刻んだ像と言われていますが、当時の大統領・ウイリアム・ハワード・タフトのウイリアムの愛称「ビリー」に、小さいを表す接尾語「―ken」を加えたのが名前の由来とされています。幸福の神様と言われるビリケン像は、寺内が陸軍大臣の時に日本に伝わって広まりました。とんがり頭と吊り上がった目が寺内に似ていることから「ビリケン宰相」のあだ名が付きました。実はここには政治的な意味合いが込められています。
護憲運動(大正時代に発生した立憲政治を擁護する運動)のあと、政党内閣が期待されたにもかかわらず、寺内内閣には政党員の入閣がありませんでした。「非立憲的な宰相」このひーりつけんの響きがビリケンと似ていると、批判の意味も入って呼ばれました。寺内内閣は大正5年(1916)10月9日、大隈内閣の総辞職から1週間足らずで成立しました。その内閣は、最後の超然内閣(政党に左右されない、藩閥内閣)の意味を持つ内閣でしたが、寺内が首相になる少し前から第一次世界大戦中でもあり、物価が急に上がり、わずか4年の間に、2倍以上になっていました。こうした状況の中で、政党の反対を無視してシベリア出兵の強行、軍備の拡張、増税を行ったため、人々から独断で政治をするという「非立憲」と言われたのです。その結果、寺内内閣の退陣理由は、日本各地で起こった米騒動の政治責任を取ったとされていますが、実は自身の肺癌が大きな要因でした。大正6年に召集された通常議会の時は、神奈川県大磯の別邸で静養を余儀なくされました。大正7年4月に「病躯劇職にたえず」と山縣に辞意を伝えるも、「一身既に君国に捧ぐ。斃(たお)れてのち已むべきのみ」と留意され、病状はますます進行、米騒動の鎮圧を待って辞任。厳しい選択の結果、残念なことに約1年後の11月3日、大磯で死去。葬儀は、東京芝の増上寺で営まれました。次回は、加藤高明です。(敬称略)
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