明治150年記念連載 大磯歴史語り 第22回「加藤高明【2】」文・武井久江
加藤高明は、岩崎弥太郎の死により帰国命令が出され日本に戻ります。明治19年(1886)弥太郎の後継者となった弟の弥之助に望まれ、弥太郎の長女・春路と結婚します。そして三菱の財力を持つことになります。三菱との縁が出来たものの、高明の関心は商売よりも政治、イギリスでの暮らしは政治への関心を育てることになりました(加藤高明著「滞英遇感」に詳しく載ってます)。それも、国際政治へと関心が高まります。間もなく三菱を退社し、明治20年(1887)外務省に入省。高明は持ち前の頭脳明晰・剛直な性格に加え運にも恵まれ、間もなく義父・弥太郎に理解のあった大隈重信が黒田清隆内閣で外務大臣になります。高明は大隈の秘書官として登用され、陸奥宗光外相のもとで政務局長などを歴任した後、希望通り国際舞台に躍り出ることができました。外交官としては、その後順風満帆で、やがて35歳の若さで駐英公使に就任し、三国干渉や条約改正への対応など日清戦争の戦後処理に取り組む中で、次第にイギリスに人脈を築いていきました。
明治33年(1900)に、第4次伊藤博文内閣で外務大臣になりました。この時40歳です。この2年後に、大磯に別荘を構えます(妻・春路の叔父である岩崎弥之助は、大磯駅前に明治22年頃、約3万2000坪の別荘を構えます)。この年に衆議院議員に当選。この頃、旧知の原敬から政友会に勧誘されますが、断り続けます。そして一時政界を離れ、買収した東京日日新聞(毎日新聞の前身)の経営と、社説の執筆に専念しました。明治39年(1906)再度政界に戻り、第1次西園寺内閣の外務大臣に、そして駐英特命全権大使に就任。日英通商航海条約の改定、日英同盟の改定に力を注ぎ、何とか調印にこぎつけます。高明の外交姿勢はイギリスとの協調重視でした。実はこれが命取りになり、日露協調路線の山縣有朋らと相反することになり、総理大臣への道が遠のいていきました。次回は総理就任まで。
(敬称略)
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