明治150年記念連載 大磯歴史語り 第19回「寺内正毅【2】」文・武井久江
前回でお話しした田原坂の戦いで、寺内は右手の自由を失くしました。そのために、以降は実践の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩みます。明治11年(1878)に士官学校生徒大隊司令官心得という職務を経て、明治15年閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)のフランス留学に随行して渡仏。パリ駐在武官を兼務し、明治19年に帰国します。この時の見聞が寺内を国際的視野の広い軍人に育てます。翌年、陸軍士官学校長に就任。その時のエピソードがいくつか残っています。その1、彼はとても几帳面で生徒管理のために校長官舎から学生一人ひとりの動向を望遠鏡で観察し、それぞれの学生に細々と注意を与えたとか(この時に、隊長格の者に兵全員の名前を覚えるように指導しました。自分の名前を呼ばれることは、戦場に出る者に信頼を生みました)。その2、指導の青鉛筆が有名で副官や生徒が書いた文章にことごとく修正を加えました。彼曰く、それは向上を願っての指導であったと。この事は朝鮮総督になり、総理大臣に就任しても、彼は書類に青鉛筆で書き加えたそうです。
明治27年から始まった日清戦争では、運輸通信長官を務め、その後明治31年(1898)に初代教育総監となり、先の陸軍士官学校長に続き、軍人の教育部門で本領を発揮し、明治33年に参謀本部次長に就任します。そして第1次桂、第1次西園寺、第2次桂という3代の内閣で9年間陸軍大臣を務めました。また、陸軍大臣のまま明治43年5月に韓国統監、10月に朝鮮総督になりました。その朝鮮総督時代の寺内は、酒もタバコも日本の高級品をやめ、韓国製のものを選んで使うという細やかな神経の持ち主でした。朝鮮総督としての働きぶりが認められ、大正5年寺内内閣が発足します。次回は、ビリケン内閣について語ります。寺内の頭の形がこの像に似ていることから「ビリケン宰相」のあだ名が付きました。写真はそのビリケン像です。(敬称略)
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3月29日