1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西沖80Kmを震源としたM(マグニチュード)7・9の地震が発生。小田原の人口は当時2万6668人。市内5155戸のうち全焼が2126戸、全壊が1945戸、半壊が501戸、死者は370人を数えた。 出典『目で見る小田原の歩み』
坪井留吉さん(98)
「前日の雨が止み、蒸し暑い朝だった」。震災当日の記憶をたどり坪井さんはこう語る。坪井さんは尋常高等足柄小学校第一分教場(現芦子小)の2年生。下校後、早めの昼食を済ませ、両親と3人で家にいた時に揺れが来た。
立っていられず前に倒れた坪井さん。たんすがバタバタ倒れ、棚から物が落ちてくるなかを、四つん這いになって外へ逃げた。家の前を流れる川の石垣が崩れる大きな音がしたという。近所では2、3軒の家屋が倒れたと記憶しており、揺れがおさまると、道は1mほど陥没し、亀裂が入っていたそうだ。テレビもラジオも普及していない時代、周りの状況が分からない日が続いたという。
両親と兄弟8人が全員無事だった坪井さんは「自然には勝てないし、絶対の安全はないんだって思ったよ。大切なのは、なにかあったら皆で助け合うこと」と話してくれた。
遠藤利康さん(97)
震災当時、久野に住んでいた遠藤さん。尋常高等足柄小学校久野分教場(現久野小)の1年生だった。
帰宅し、友人の家へ遊びに行く途中で地震に遭った。「なにがなんだか分からなかった。歩いていた道がなくなったので、びっくりして田んぼに逃げ込んだよ」と当時の驚きを振り返る。
すぐに家へ戻ると幸い自宅は無事だったが、集落は9軒の家が山津波にのみこまれ、そのうちの1軒で同級生の女の子が亡くなったのを記憶している。近所を流れる久野川にかかるいくつかの橋が落ち、不自由したそうだ。
鮮明に覚えているのは、大工道具を持って、日の出旅館(現栄町3丁目)の復旧作業に出かけていた父の姿。弁当を届けに訪れた当時の浦町には葦(よし)が生える沼があり、表通りは焼け野原になっていた。
思えば「きっちりした土台の上よりも、石の上にドカッと建てた家の方が倒れずに残った気がするな」。しばらく余震が続いた日を、遠い目で思い出した。
朝倉フミさん(97)
朝倉さんの当時の住まいは中町・広小路。家にいたところを揺れに襲われ、急いで外に飛び出した。道路が割れて川の水が吹きあがった光景が瞼に焼きついている。自宅や周辺の家屋が潰れ、家の裏の畑に近所の人たちと集まって過ごした。壊れた家から雨戸を引っ張ってきて2、3枚積み上げて座っていたそうだ。
当時は高い建物もなく、中町から国道1号線方面を臨むと、海の辺りが大火事になっているのが見えたという。
「着の身着のまま母の実家の飯泉に引っ越してね。向こうはうちも潰れず食べ物にも困らなかったのよ」と穏やかに語る。