東日本大震災3.11から3年 Action of オダワラ 2014年3月の被災地【1】 南相馬・相馬編
震災から3年経った3月14日から16日、福島県相馬、南相馬、宮城県石巻、気仙沼の各市を訪れた。「震災から3年」を被災地はどう迎えたのか取材した。 (取材/菅原 裕)
南相馬市小高区西町は福島第一原発からおよそ15Km。日中は出入りできるが夜間の宿泊は制限されている避難指示解除準備区域だ。ここに住まいを構える久米静香さんは、現在隣町の相馬市で暮らしている。
久米さんの案内で夜の小高区を訪れた。誰もいない住宅地、闇夜のなかで人の気配のなさが無性に怖い。「私たちにとっては3月11日だけじゃなく、原発の1号機が水素爆発した12日も大きな意味を持つのよ」と話す久米さんは、爆発後の12日夕方から避難をはじめた。秋田や山形で家を探したが雪深い環境に不安を覚え、福島市での避難所生活を経て相馬に落ち着いた。言葉の裏に、住める家がありながら住めない悔しさがにじみ出る。
家族ぐるみで親しくしていた「お隣さんたち」は、山形、東京、埼玉と、日本全国散りぢりになったという。6年ほど前に庭先で撮ったご近所さんとの集合写真を眺めながら「今どうしているのかな。連絡も取れないのよ」と、過ぎた月日をかみしめた。
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滞在中に立ち寄った相馬のスーパーで、レジに並ぶ人に声を上げてかけ寄り、抱き合って泣く同年代同士の女性を見た。震災以来の再会だったのだろう。3年前、初めて相馬を訪れた時に避難所で出会い、今は居場所が分からない知り合いの顔を、ふと思い浮かべた。 相馬へ行くたびに立ち寄る、原釜漁港そばの舘岡悦子さん宅。「3月に入ったら胸が苦しくなってね。亡くなった人や会えなくなった人、いろんな人の顔が浮かんできて、寝られなくなっちゃったの」と、手を取り話してくれた。舘岡さんは津波で半壊した住宅の修復を終え、昨年5月に帰宅した。花を植えたり、ボランティアに出かけるなどして、震災前の生活を取り戻そうとしている。 =続く
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