神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS

語り継ぐ戦争の記憶 ―シリーズ 終戦70年―

公開:2015年2月28日

  • X
  • LINE
  • hatena
田中美代子さん(90)1924年生まれ 市内城山在住
田中美代子さん(90)1924年生まれ 市内城山在住

 終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。初回は終戦の年の3月まで代用教員をしていた田中美代子さん(90)。

 終戦時は真鶴の福浦村国民小学校(現・福浦小学校)の代用教員を務める20歳の乙女だった。男性教員は戦地に駆り出されていて、「元気な人はとにかく働かなければ」と、女性教員が多かったことを覚えている。  新玉小学校そばの自宅から電車で通勤。空襲警報で電車が止まることもたびたびあった。警報が鳴ればたとえ夜中でも、御真影を守るために学校へ駆けつけた。

 真鶴駅は、身近に見た「戦争」の象徴と言えた。日本の勝利を信じて疑わなかった時は出征兵士を見送り、敗戦の色が濃くなってからは、英霊を迎えに行くことが多くなった。「子どもたちを連れていくんです。真鶴は高橋姓が多かったから、送り出す時の万歳は、下の名前を呼んでね」。

裕福も貧乏もない「それが戦争」

 4人兄弟の兄2人はまったく違う運命をたどった。葉山小学校の教員をしていた長兄は、結核に罹り終戦を待たずに22歳で他界。すぐ上の兄も成績優秀だったが、学徒動員は避けられず、甲府連隊へ入隊した。

 1945年7月末、入隊していた兄から届いた1枚の葉書。「いよいよどうも南方の方にやられる(派遣される)らしい」という文面にいてもたってもいられず、3日並んで切符を手に入れ、甲府へと向かった。 「きんぴらにこんにゃく、ごちそうがぎっしりでした」。身延線に乗り込んだ膝の上には、叔母たちが用意した重箱がのっていた。道中、機銃掃射にあうも、重箱は無事に兄のもとへ。この兄は終戦直後の8月19日に帰還を果たす。「シラミだらけで、何日も服をお釜で煮て消毒したのよ」。肉親が戻った喜びはひとしおだったろう。

 米を作っていた父の実家の栢山には、親類や知り合いがよく訪れた。「メリケン粉と引き換えに着物や帯を持ってくるのだけれど、お金にはならないの。着ていく所もないし、田んぼのかかしが金襴緞子(きんらんどんす)をまとっていてね」。ミャンマーから復員した男性と結婚し、戦後を生きた。
 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

タウンニュースの各発行エリアで企画・編集した関連記事まとめ

http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

小田原・箱根・湯河原・真鶴版のローカルニュース最新6

5度の荒行を成満

5度の荒行を成満

法船寺の下津住職

3月23日

新坂下トンネル工事を見学

新坂下トンネル工事を見学

市内の児童らが参加

3月23日

山焼きで景観維持

山焼きで景観維持

仙石原すすき草原

3月23日

ラグビー公式戦無料招待

ラグビー公式戦無料招待

城山競技場で3月31日

3月23日

小田原の声楽家 西由起子さんが企画

星野富弘 花の詩画展 開催記念コンサート 3月27日三の丸ホール

小田原の声楽家 西由起子さんが企画

3月23日

クリニック併設 安心の住まい

クリニック併設 安心の住まい

23日・24日 試食付き見学会

3月23日

あっとほーむデスク

  • 3月23日0:00更新

  • 3月16日0:00更新

  • 3月2日0:00更新

小田原・箱根・湯河原・真鶴版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年3月23日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook