語り継ぐ戦争の記憶 ―シリーズ 終戦70年―
終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。初回は終戦の年の3月まで代用教員をしていた田中美代子さん(90)。
終戦時は真鶴の福浦村国民小学校(現・福浦小学校)の代用教員を務める20歳の乙女だった。男性教員は戦地に駆り出されていて、「元気な人はとにかく働かなければ」と、女性教員が多かったことを覚えている。 新玉小学校そばの自宅から電車で通勤。空襲警報で電車が止まることもたびたびあった。警報が鳴ればたとえ夜中でも、御真影を守るために学校へ駆けつけた。
真鶴駅は、身近に見た「戦争」の象徴と言えた。日本の勝利を信じて疑わなかった時は出征兵士を見送り、敗戦の色が濃くなってからは、英霊を迎えに行くことが多くなった。「子どもたちを連れていくんです。真鶴は高橋姓が多かったから、送り出す時の万歳は、下の名前を呼んでね」。
裕福も貧乏もない「それが戦争」
4人兄弟の兄2人はまったく違う運命をたどった。葉山小学校の教員をしていた長兄は、結核に罹り終戦を待たずに22歳で他界。すぐ上の兄も成績優秀だったが、学徒動員は避けられず、甲府連隊へ入隊した。
1945年7月末、入隊していた兄から届いた1枚の葉書。「いよいよどうも南方の方にやられる(派遣される)らしい」という文面にいてもたってもいられず、3日並んで切符を手に入れ、甲府へと向かった。 「きんぴらにこんにゃく、ごちそうがぎっしりでした」。身延線に乗り込んだ膝の上には、叔母たちが用意した重箱がのっていた。道中、機銃掃射にあうも、重箱は無事に兄のもとへ。この兄は終戦直後の8月19日に帰還を果たす。「シラミだらけで、何日も服をお釜で煮て消毒したのよ」。肉親が戻った喜びはひとしおだったろう。
米を作っていた父の実家の栢山には、親類や知り合いがよく訪れた。「メリケン粉と引き換えに着物や帯を持ってくるのだけれど、お金にはならないの。着ていく所もないし、田んぼのかかしが金襴緞子(きんらんどんす)をまとっていてね」。ミャンマーから復員した男性と結婚し、戦後を生きた。
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