終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第4回は旧日本陸軍の兵士としてインドネシアへ出征していた楠田豊次さん。
昨年11月に100歳を迎えた楠田さん。今も近所の豆腐屋に歩いて買い物に行くのが日課で、孫8人、ひ孫7人に恵まれた穏やかな日々に、「孫同士仲が良い。皆、よく遊びに来てくれる」と嬉しそうに語る。かつて戦争を経験したからこそ、平和のありがたみを強く実感する日々だ。
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太平洋戦争の終結まで、満20歳に達した男子に義務付けられた「徴兵検査」。兵役に服する資質を調べるもので、楠田さんは身長が低かったことから入隊は見送られ、人員不足の際に駆り出される「乙種」の判定を受けた。そのため、開戦後もしばらくは将来の独立を夢見て藤沢の呉服屋に住み込みで働いていたが、戦況が厳しくなるとついに召集令状が届く。
当初は兵隊として戦争に行かないことに安堵していたものの、いざ”赤紙”を手にすると、「国のために尽くそうと燃えていた」。陸軍に入隊し、3カ月間の訓練を経て決まった出征先は、インドネシアの北スマトラだった。
船で数日かけて向かった南方の地。同乗していた約50人の兵隊は、通常であれば戦争へ行かないはずの体格の小さな者ばかりだった。途中、敵の潜水艦に遭遇。水深の浅い川へ逃げ込み難を逃れたが、部隊を混乱させないための配慮からか、絶体絶命の危機にも上官は「大したことない」と平然としていたという。
北スマトラで行われた演習は、海と山から攻撃を受けた場合を想定した厳しいもの。だが、気候も穏やかで、演習の時間外にはヤシの実をとって食べるなど生活は戦中と思えないほど平穏。兵隊に支給される菓子をねだりに宿舎を訪れる現地住民との関係も良好で、言葉を教えあったり、家に遊びに行くなど、戦時中にも関わらず、そこには小さな国際交流が生まれていた。
結局、一度も敵の襲撃を受けることなく迎えた終戦。「結果的に疎開していたようなものだった」。帰国の途につく際、港に見送りに来た現地住民の姿を目にした際に流したのが、戦争中で唯一の涙だった。