今年で終戦70年。人・もの・場所を介して、小田原に残る戦争の記憶を綴る。第6回は、城山の飯田和(かのう)さん(90)。ライフワークにしているシダ植物に造詣が深くなったのは、戦中の出会いがきっかけだった。
関東大震災の翌年(1924年)、下中村(今の中村原)で生まれた飯田さん。学年を重ねるごとに戦争の色が濃くなる中、小田原中学(現・小田原高校)を卒業。神奈川師範学校(現・横浜国立大学)へ進学、そこで運命の出会いを果たす。
当時師範学校には、生物学者で昭和天皇の相談役でもあった故・酒井恒氏が、生物の教鞭をとっていた。酒井氏も小田原中学出身ということもあり、飯田さんを可愛がった。もともと植物や生物が好きだった飯田さんは意気投合。「他の授業はそっちのけで、生物の授業だけ受けていた」という。「他の授業を受けないので『飯田は退学させてしまえ』と言われていたところを、酒井先生が助けてくれ、卒業できました」と当時を思い出し、笑みを浮かべた。植物を通した恩師との触れ合いは、戦中という極限状態を忘れさせてくれるひと時だったようだ。
日に日に悪化を続ける戦局のため、師範学校生も勤労動員で駆り出される。飯田さんは途中、海軍予備学生の試験を受け、合格。1945年5月、久里浜の海軍対潜学校へ進む。漕艇訓練と水泳の毎日。「実は、スクリュー音を聞き分け、敵の潜水艦を見つける訓練や船が沈んだ時に早く渦の外に抜けるための練習だったようです。アメリカはレーダーで探索しているのにね」と自嘲気味に笑う。7月に平塚の火薬廠を狙った大空襲は「横須賀まで地響きがし、真夜中でも新聞が読めた」という。
ほどなく終戦。後に、自分たちはベニヤ板の船に乗り、爆弾を抱え、敵機にぶち当たる通称『丸4艇』の乗組員、いわゆる特攻要員だったことを知らされた。「あと数カ月終戦が遅れていたら、私はここにはいなかったでしょうね」。
8月23日。真っ白な寝間着と毛布2枚を支給され、実家へと戻る。降り立った国府津駅は空襲のため駅舎もなく、一面の焼野原が広がっていた。師範学校を卒業し、早川小学校の教壇に立つのは、それからおよそひと月後のことだった。
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