小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介して綴るシリーズ14回目は、小田原高等女学校1年生で終戦を迎えた藤木繁子さん(84)。小児結核を病みながらも、たくましく戦中・戦後を生き抜いた。
生家は湯河原町の青果店・八百正。父の得意先の1軒だった、老舗旅館の別邸が舞台となった2・26事件が、戦争にまつわる一番古い記憶だ。
小児結核を病み、友人から遅れること1年、1945年に小田原高等女学校へ入学。勤労奉仕に励む級友たちと同じ働きができないもどかしさを感じるなか、「これは私にもできる」と、夏休みの宿題に出された軍馬のエサ用の干し草づくりに精を出した。草刈り中にも空襲警報が鳴り響く。「白い体操服は目立つから気を付けろ」という教えを守り、刈った萱(かや)をかぶって息を潜めた。軍の施設があった伊豆山を目がけた飛行機が、急降下し爆撃する様は今でも目に焼き付いている。
湯河原から小田原への通学も命がけ。買い出し客で混雑する電車に乗るため、まず「足がひっかかる場所を探すの。それからデッキに『ぶらさがって』耐える」。トンネルを出た先で敵機が待ち構えていることもしばしばで、線路を歩いての通学も日常茶飯事だった―。
迎えた8月15日。玉音放送は自宅で聞いた。明けて16日、混乱の小田原駅を通り過ぎて登校。小田原にも進駐軍がやってきた。町で見かける米兵は小銃を肩にかけ、チーズの包装紙をばりばり剥いて道端に捨てていた。「行儀の悪さに驚いた。戦争には負けたけれど、気持ちは負けていないんだ、って胸張ってそっくり返って歩いてたわね」。
弱かった体ゆえ「とにかく両親にお金をかけさせてしまったから」と、恩返しを誓った戦後。自転車を漕ぎ、商売の集金に駆け回った。夜道をゆく時には頬かむりをして男子に変装。「集金先の手が空くまで旅館の帳場でテスト勉強、なんていうこともあった」と懐かしそうに振り返る。
小田原の酒屋・藤木屋に嫁し、舅と姑を世話しながら家族と一つになって必死に店を盛り立てた。「体の大切さを身に沁みて自覚した。今は資金繰りと、ちょっとの雑用が私の仕事ね」と微笑む横顔には、穏やかさのみが浮かんでいた。