終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第15回は満州開拓のため家族とともに移住した名取敬和さん(86)。過去を後世へ伝えるべく現在は紙芝居で戦争を語る。
「運良く生き残ったのではなく、次の世代に伝えるために生き残ったのだと思う。それが自分の使命」。そう話す名取さんは、現在公民館や小・中学校などで紙芝居を通じて戦時中の体験を伝えている。
1928年、8人兄弟の次男として信州の農家に生まれた名取さん。とても優秀で「満州開拓」に断固として反対していた兄が41年2月に徴兵され、5月には全財産を処分し、家族全員で満州へ移住することになった。
満州での生活は、食糧は主にトウモロコシやジャガイモ。「当時の日本の食事よりも良かったのでは」と振り返る。主に軍用馬を使って荒野を耕す作業を手伝う日々。しかし、敗戦を機に名取さん一家の生活は過酷なものとなる。
中国軍からの食糧提供命令や、日本軍に土地を奪われた1000人もの現地人が毎日のように武装して攻めてきた。そのため、名取さんの部落は病院に立てこもり、やむなく共同生活を強いられた。
そんな中、父は栄養失調となり異国の地で命を落とした。姉2人は現地人と無理矢理結婚させられ、戦後も二度と日本に戻ることはなかった。
敗戦から1年後、米国軍と中国軍の命令によって満州から引き揚げることとなり、米軍の船で日本へ帰ってきた。栄養不足でふらふらの航路。どこで寝て何を食べたかも覚えていないくらいやっとの思いだった。
その後弟と協力して酒屋を開店。80歳となり弟に店を任せ、昔から得意だった絵を生かして紙芝居づくりを始めた。
「過ちは二度と繰り返してはならない。犠牲になった人々の代わりに伝えていかねば」と、紙芝居を通して戦争を知らない世代と自らの体験を共有している。満州で亡くなったとされる人は20万人。自国民だけではなく、他国民にも犠牲者はいる。迷惑をかけたことを詫びる気持ちと、二度と戦争を起こさないという堅い意志を持ちながら、今後も「頼まれればいつでも」と紙芝居を続けていく。