終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第24回は3651人が犠牲となった山の手空襲を生き延びた石川道子さん(90)。
1945(昭和20)年5月25日夜、東京都赤坂区(現・港区)の街に空襲警報が響く。もはや日常茶飯事の出来事もこの日は様子が違った。飛び交う敵機の数が明らかに多かったのだ。
異常を察知した父の福次郎さんは、防空壕が数多くある青山墓地方面へ逃げるよう家族に指示。戸外に出ると、機銃掃射を受けた渋谷方面の空が赤く染まっていた。募る恐怖感。一方、攻撃対象を照らし出す照明弾の美しさが今も脳裏に焼き付いている。「辺り一面がパーッと昼間のように明るくなって、きれいだった」
背後に迫る熱と炎。逃げ惑う市民で混乱する街を足の悪い叔母の手を引きながら逃げた石川さんは、家族とはぐれてしまう。「ここで死ぬのか」。敵機の轟音が響くなか、震えながら膝丈ほどの側溝に身を潜めた――。
しばらくして辺りに静寂が戻った。「どうやら助かった」と、家族との待ち合わせ場所だった知人宅へ向かい、母のタケさんや兄弟らと再会。無事を喜んだが、福次郎さんの姿がなかった。
翌朝、父を探しに焼け野原と化した街へ。至るところに焼死体が横たわり、赤ちゃんをおぶったまま下半身が黒焦げになった親子もあった。「どんな思いで亡くなったのか。見るに堪えなかった」。鮮魚店を営んでいた自宅も全焼。焼け跡に業務用冷蔵庫がポツンと残っていた。「扉を開けたら鮭が蒸し焼きになっていたので夢中で食べた」。非常事態でも腹は減る。生きることに懸命だった。
3日後、福次郎さんは自宅近くで警察により遺体で発見。身元判明の決め手は、胸ポケットで燃えずに残っていた水晶の印鑑だった。「自宅が燃えるのを最後まで見ていた父を目にした人がいた。責任感が強い人だったから、何か手だてを考えていたのかもしれない」
戦後、結婚を機に小田原へ。「こんな経験をしたのだから80歳まで生きなきゃ」と誓って70年。今は孫10人、ひ孫9人に恵まれた幸せな生活を送る。「戦争で辛いのは身内を失うこと。犠牲になるのは国民」と、後世にメッセージを残した。
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