「何を見て、何を知るか。そして知ったことをできるだけ多くの人に伝え、自分ができることは何か考えてほしい」。81歳の飯田耀子さんが次世代へ伝えるメッセージだ。
本町小学校に通っていた飯田さん。4年生から体育の授業は「小さな戦士」として薙刀(なぎなた)を振る訓練に変わった。戦争まっただ中とはそんな時代だった。
1945年8月15日未明。「空襲だよ」という母の声で飛び起きた。家の目の前の交差点は、焼夷弾であちこちに火柱が上がり、夜明け前にもかかわらず昼間のように明るかった。家族で手をつなぎ、海から山王川方面へと必死に逃げた。家は残ったが、熱で夜になっても入ることはできなかった。小田原空襲では幸いにも家族全員助かったが、同級生が一人亡くなった。
数時間後の正午、玉音放送が流れる。「負けた」とは言わなかったが、「戦争が終わった。これから日本は大きく変わる。女性も勉強する時が来る。思ったこと、考えたことができる時がくるだろう」という父の言葉と、まわりの雰囲気で終戦を感じた。灯りがつけられる、本が読める、学校に行ける、友人と何でも自由にできるとうれしかったが、不思議と悔しいという気持ちはなかった。
飯田さんはその後教師となるが、自身が体験した戦争、近現代史をしっかりと伝えられなかった自責の念から、退職間際から『戦時下の小田原地方を記録する会』として体験を通し取材し、伝えることをライフワークに。これまで約2万人の子どもたちに戦争の悲劇を伝えている。「あなたの曾祖父母たちが必死に生き抜いて国を築き、受け継いだ命。人を尊重することの大切さを胸に、何事にも挑戦して、元気に楽しい毎日を送ってほしい」。子どもたちへの重みのあるエールは、紡ぎ伝えられていく。