終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第28回は小田原中学時代に機銃掃射を受け、九死に一生を得た経験をもつ奥津裕さん(83)。
1944年4月、奥津さんは旧制小田原中学(現・小田原高校)に入学する。太平洋戦争の開戦から約2年半。それでも、小田原の街にはいつもと変わらぬ日常が流れていた。「B29は飛んでいたけれど、はるか上空。狙いは東京や横浜で、こっちには関係ないことだと眺めていた」
とはいえ、間もなくすると鴨宮の田んぼでは暗渠(あんきょ)排水、根府川のミカン山では肥料運びなど、勤労動員として農家を手伝った。これは食料の増産運動。腹を空かせた生徒らが一生懸命作った米や果物は自分たちが口にすることなく、戦地の兵隊へ送られていった。
夏を過ぎると、ラジオが伝えるニュースの内容にそれまでとは違う変化が現れる。「いつもなら海上で敵機を落として勝ったというものだったのに、その頃からは本土で迎撃したという内容が増えた」。被害を受けたというものではなかったが、それは敵機が本土上空に頻繁に侵入していることを示していたのだ。
冬になると学徒動員に駆り出され、酒匂の印刷局で満州国紙幣の製造に携わった。「日本は大東亜共栄圏を建設し、黄色人種が栄える国を築こうと教えられていた。それに従順に従い、紙幣を作りながらも意欲に燃えていたのだから、教育とは恐ろしいものだ」
いよいよ戦況が厳しくなると、小田原にも海から低空で艦載機が飛来するようになる。2年生に進級した7月のこと。友人と帰宅途中、報徳橋付近の酒匂川で遊んでいると、2機の艦載機が上空を通過する。飛び去るのを確認し、再び川遊びに熱中していると、一旦小さくなった機影が見る見る大きくなり、こちらに向かってきたのだ。「機銃掃射を浴びせられたが、草むらに飛び込んで助かった。まるでウサギを狙うようなもので、米軍もよほど暇だったのだろうか」
終戦を迎えてまもなく、旧小田原城内高校と合同の文化祭では、男女一緒にスクエアダンスを踊った。戦前の男女別学が当然の教育を受けてきた少年にとって、ようやく迎えた平和な光景も違和感しかなかった。