終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第39 回は、広島で原子爆弾に被爆した経験をもつ清水啓(はじめ)さん。
夏の強い日差しが照りつけていた1945年8月6日の朝。中学2年生だった清水さんは、広島県尾長町(現・広島市東区)の自宅から海田町へ国鉄で向かっていた。
海田市駅で電車を降り、学徒動員として荷役作業を行う陸軍工場へ歩いていた途中のこと。上空を飛ぶ一機の飛行機から、物体がふらふらとゆっくり降下してくるのを目にした。「何か落ちてきたなあ」と友人と話していた次の瞬間、辺り一面がカメラのフラッシュのような強烈な閃光に包まれた――。
世界で初めて投下された原子爆弾。幸いにも爆心地から東方へ約7Km離れた海田町では窓ガラスが割れた程度だった。工場に着くと「今日は帰るように」とだけ指示された。駅に戻っても電車は不通。状況が分からぬまま、徒歩で自宅を目指した。
道中、市街地から逃げてくる大勢の人とすれ違った。「衣服が焼け焦げ、顔が判別できないひどい火傷を負った人たちばかり。あちこちから水を求めるうめき声が聞こえ、力尽きて倒れた人もゴロゴロ転がっていた」と、目にした凄惨な光景を淡々と語る。「平和な時代ならともかく、あっちで爆弾、こっちで爆弾という戦争の真っただ中。遺体こそ見ないようにしていたけれど、恐怖や驚きなど特別な感情はなかった」という。
市中心部への侵入は兵隊が禁止していたが、家があることを説明して通してもらった。だが、行く手を阻む燃え盛る炎。迂回して山道を歩き、昼ごろ家にたどり着くと、屋根や壁が吹き飛ばされ、かろうじて柱だけが残る無残な姿に。家の前で立ちすくんでいるところを近所の人に誘われ、被害のなかった建設中の市営住宅へ向かった。
家族の生死も分からず一人過ごした夜。まだ14歳の少年ながら「不安や寂しさはなかった。戦争は命だけでなく、あらゆる感情をも奪ってしまう」。父は顔や腕に大火傷を負っていたが、家族は皆無事。だが、爆心地近くに学徒動員として派遣されていた多くの級友が若い命を落とした。
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