きょう開幕を迎える小田原梅まつり。太平洋戦争による中断を経て再開した催しも、今回で46回目を数える。年々多くの見物客でにぎわう初春の風物詩となったが、背景には梅の生産農家の高齢化や跡継ぎ不足の問題も忍び寄る。
戦前、中河原梅林で開催されていた梅まつり。期間は紀元節(2月11日)の前後3日間で、「規模は今より小さかったけれど、舞台が設置されて芸者の踊りやお芝居もあった。人がたくさん集まるし、お小遣いをもらえるのが嬉しかった」と、当時を知る上曽我在住の加藤智巳さん(87)は話す。
その後、太平洋戦争の勃発でまつりは中断。政府の指示で梅林の一部が伐採され、食糧供給のために麦畑へ姿を変えた。「梅干しは保存食として、大量に軍へ送られていた。それなのに、なぜ梅より麦なのか。子ども心に疑問を感じた」。終戦を迎えても、まつり復活の機運が高まることはなかった。
東京五輪を翌年に控えた1963年、下曽我駅前の商店主らで組織する下曽我商工振興会が中心となり、約20年ぶりに開催。地域ぐるみの催しにしようと、71年には地元農家らを中心に実行委員会が結成され、新たな歴史が始まった。
当初は、伸び悩んだ客足。第1回目から約30年にわたり実行委員を務めた加藤さんらはNHKへ出かけてPRを依頼したほか、東京駅などで梅の枝を配布しながら宣伝活動を行うなど、集客に向けた懸命な努力を重ねた。その成果もあり、86年には約60万人の来場者を記録。会場で販売される農産物の売り上げも1億円を達成し、経済的にも曽我地域にとって不可欠な催しへと成長を遂げた。
悩む後継者不在
曽我地区にある約3万5千本の梅は、観賞用ではなく果実生産用。すなわち、まつりの継続には梅生産農家の維持が不可欠となる。しかし、小田原産生梅のJA取扱量は過去10年間でみると2006年度の約75万kgがピークで、15年度には約28万kgに減少。要因は、悪天候や生産農家の減少が考えられるという。後継者不在による休耕地も増えつつあり、手入れの滞った梅林は下草が生い茂る。そこに華やかな雰囲気はなく、ゴミが不法投棄された場所もある。
まつりの実行委員は昨年6月、初の取り組みとして、生梅や樽など梅干し作りに必要な材料をセットにしたキットを実演販売した。実行委員会長で生産農家でもある穂坂信雄さん(68)は、「昔に比べて生梅の需要が減っている。梅に興味を持ってもらって消費を増やし、農家の生産意欲拡大につなげたい」と地道な活動を続ける。
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