新聞騒動にも発展した「河村城論争」が昭和初期にあった。徳富蘇峰の書による「河村城址碑」が城山に建立された3年後の昭和9年春、1人の男が旧共和村役場を訪れた。
南北朝時代に南朝を支えた楠木正成を尊崇する「東京楠公(なんこう)会」(当時)の「史料調査部長」を名乗る橋本徳太郎がその人物。
橋本は、「付近に『星山』という地名がないか」尋ね、「もしあれば南北朝時代の河村城の所在地」と説明した。教員住宅に寄宿してひと夏を過ごし、古文書や踏査に奔走した。その後、1660年の検地帳から『ほし山』の地名を発見。これが大野山であると唱えた。
これに共和村が沸き立ち、当時の村長が青年団員を動員して、共和小学校前に2基の石碑を建立した。当時の共和村が、恩賜賞受賞の歴史家、徳富蘇峰にまつわる「河村城址碑」を意識したことは想像し易い。
共和村が建てた「河村氏表忠塔」は、水戸徳川家十三代当主で公爵の徳川圀順(くにゆき)による揮ごうで、並び建つ「建武中興六百年碑」には「陸軍中将林弥三吉」の署名がある。
昭和9年10月に旧共和小学校の校庭で除幕式が挙行され、公爵や男爵、貴族院議員、陸海軍大将、第一師団長、明治神宮宮司らそうそうたる来賓が名を連ね、総勢600人が参列した、との記録もある。近くに住む瀬戸政市さん(93)は「学校の前に大きな石碑が2つ建ち、しばらくして今の場所へ移された。大人たちが山へ引き上げた」と記憶をたどる。
「河村城は共和村全体に及び、鍛冶屋敷裏の標高370メートルの山頂が本城。吾妻山を前城、星山(大野山)を詰城とする」
橋本徳太郎の主張は当時の新聞紙面を賑わし、役場も当時の文部省に史跡指定を申請したが戦況の悪化によりかなわず、橋本も戦時中に急逝したため論争は立ち消えた。
城址につながる遺構などは今も見つかっていないが、当時の共和村が石碑を建立し、河村城址に夢を馳せた名残は今なお感じることができる。その石碑は、共和地区古宿(ふるやど)の杉林でひっそりと佇んでいる。
■参考文献…『足柄の文化』第40号・岩本宣夫著「河村城跡論争の頃の共和村」、石野瑛著『河村城址の考究』
(おわり)
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