県立小田原高等学校(小田原市城山)の創立120周年を記念したバーチャル式典のネット配信が11月20日、同校と同窓会組織、PTAによる実行委員会によって始まった。江戸時代まで遡る創立に至る歴史や中等教育の重要性を説いた地域の熱意、大きな節目の記念事業に携わった関係者の取り組みなどを紹介していく。
創立前史
寺子屋などを経て、現在の中高生世代が通う中等教育機関が県西地域で誕生したのは1822(文政5)年。小田原藩主、大久保忠真(ただざね)が小田原城三の丸に創設した藩校「集成館」が始まりだ。
藩内の人材育成を目的に、同館では武家の子どもに儒教などを教えたという。大久保家は明治期に入っても英学科を新設するなど、教育に注力。県学校文武館となった1871(明治4)年からは一般庶民を受け入れ、地域中等教育の普及に尽力した。
その後、国の官費学校廃止策により文武館は廃止に。地域住民らが学校運営を存続させるも財政難が続き、小田原町議会議員らによる私立足柄英和学校(1888〜90年)の廃止以降、県西地域は中等教育空白の時代に入った。
続く地域の熱意
学校再開の働きかけは小田原町によって英和学校廃止直後から行われた。県師範学校の郡部移転案や学習院の地方移転案に出願を続けるも叶わず。1895(明治28)年に県内初の尋常中学校設置が横浜に決まる中、町議会はこの年から毎年、県に対し尋常中学校の設置を出願していく。積極的な誘致活動は、藩校時代からの教育に対する高い関心からくるものだった。
「中等教育をこのまま絶やしてはいけない」。粘り強く活動を続けた1900(明治33)年、ようやく県知事が小田原町緑町で翌年4月の開校を告示。藩校から始まり、有志が支えた中等教育の現場が途絶えて10年。住民らの熱意によってこの地に再び教育の火が灯ることになった。
尊徳の教えも
現在の小田原駅がある場所で開校した「神奈川県第二中学校」。鳥取県から吉田松陰の甥として招かれた吉田庫三(くらぞう)初代校長の教育方針は厳格そのものだった。学生ズボンは手を突っ込まないためにポケットを付けず、自転車登校も認めない。これらは温暖な気候の小田原で育つ生徒たちに厳しさを学ばせようという思いからだった。
校訓の一つ「至誠無息」は開校10年目に掲げられたもの(もう一つの校訓「堅忍不抜」は大正時代に登場)。質実剛健を求めた教育方針や「至誠」(誠意や真心の意)など、随所に二宮尊徳の教えがあるのも同校の大きな特徴の一つだ。
現在の姿へ
小田原駅開業に先立ち、1914(大正3)年に現在の八幡山に新校舎を完成させた同校。当時の八幡山は小田原城址だったため、ご領地を借り受けるかたちでの移転となった。
1948(昭和23)年は年明けにPTAが発会。「県立小田原高等学校」に改称され、校章も「神中」から「樫の葉」に変更された。
昭和後期には県立高初となる海外高校との相互交流を実施。2004年には小田原城内高校と統合し、単位制による全日制普通科高校へ移行。07年には5代目となる新校舎が落成。現在の姿に至っている。
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