募る故郷への思い 東日本大震災から2年
3月11日(月)で東日本大震災から2年が経過する。市内には4県36世帯81人(3月5日現在)が今なお避難している。福島から避難している荒川夫妻に取材した。
震災による福島原発事故の放射能の影響で、現在も警戒地域である福島県双葉郡浪江町から避難してきた荒川政幸さん(55)、淳子さん(47)夫妻は、震災4日後の2011年3月15日に秦野に来た。
現在は夫婦でステンドグラスを作り、クラフト展に出展、販売している。昨年は市民の日にも出展。近隣の市に出向く事もある。
政幸さんは12年前まで仕事の関係で秦野に住んでいた。淳子さんは秦野出身者。結婚後も2人は秦野で生活を送っていた。
政幸さんの両親も高齢となり、生まれ育った浪江町に戻りたいとの思いで2002年に転居。浪江町に家を建て、故郷での念願の生活を叶えていた。
見えない恐怖からの逃避
福島県いわき市でアンティーク家具・雑貨店を営んでいた夫妻は店舗で被災。震度6強の揺れで、店内は散乱した。浪江町の自宅は福島第一原発から直線距離で約5Km、海から約200mにあり、津波が押し寄せ、家ごとさらわれたという。
11日は浪江町の民間施設で一夜を明かした。翌朝「放射能がくるから逃げろ」との情報を聞き山側の避難所に移動。そこには白い防護服姿の人も来て、政幸さんは「見ると余計に怖かった。逃げる度に放射能に追われているんじゃないか」と見えず匂いもない放射能の恐怖を体験したという。夫妻は政幸さんの両親とともに、淳子さんの実家がある本市に15日に到着した。
政幸さんの両親には初めての秦野。馴染もうしていたが、やはり同じ方言で話ができ、少しでも知った顔がいた方が心の安定になるとの理由でその後、福島へ戻り仮設住宅に入居した。
当時、秦野市内でも義援金や支援物資が寄せられ、衣類の支給があった事等に、夫妻は「秦野の人には感謝の気持ちで一杯。精神、金銭、物質面で大変助けて頂きました」と話した。
「さみしい」故郷
浪江町のほか大熊、双葉町などは、公共施設建設、雇用創出などいわゆる「原発の恩恵」を受けた。しかし、今回の事故で奪われた物は恩恵の比ではないという。震災、原発事故で「故郷とその匂い、見慣れた近所の顔、写真や、子どもたちを映したビデオ等全てを失った」と政幸さんは話す。
夫妻は震災後、一時帰宅許可が下りた7回、帰郷している。故郷やそのコミュニティーが持つ温かさは跡形もなくただ「さむい、さみしい」という印象と言うが、今年3月初旬の帰郷では、自宅付近の地面を掘ると、使い慣れた食器の欠片が見つかり、懐かしく嬉しく思ったという。
震災当初から東京電力、政府の対応に不信感は募り、故郷を穢(けが)されたこと、賠償に関する誠意の無さに「拳を挙げたいぐらい」と怒りをあらわにする。
戻るべきか留まるべきか
大きな悩みは今後の身の振り方。秦野には馴染みがある政幸さんも、一時帰宅で帰郷するたび両親の暮らす福島に「戻りたい」という思いは強くなるという。しかし一方で、近い将来あるであろう東京で暮らす娘の妊娠、里帰り出産を考えると、安全とは言えない福島よりも、秦野に居を構え続けたが方いいのではと決断に踏み切れないでいる。
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田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
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