幼少期を旧満州国で過ごした高橋正雄さん。父は軍馬の獣医だった。戦況が悪化する中、1944年、母や兄弟と共に帰国。日本では学徒動員が実施され、中学生だった高橋さんも親元を離れ、横浜の第二海軍航空廠(しょう)の工場で鉄砲の掃除や整備をして働いた。「ご飯は大豆粕のお粥。お腹も壊すし、腹ペコだった。毎晩のように空襲警報で防空壕に逃げ込んだ」と当時の生活を振り返る。
その年の6月、父を乗せた輸送船がシンガポールに向かう途中、海上で攻撃され、沈んだ。工場を訪ねた母から「お父さんの遺骨を平塚で受け取ってきてほしい」と頼まれた。「あのとき、急に小さくなったと感じた母の背中は忘れられない」。渡された白木の箱は、嘘のように軽かった。
1945年8月15日。工場で終戦を告げるラジオに聞き入った。「絶望としか言いようのない気持ちだった」。涙がとまらなかった。
「なぜ戦争に反対しなかったんですか」に絶句
戦後は母や兄弟のいる秦野へ。祖父母が貧しい暮らしを助けてくれた。黙々と国策に従わなければならなかった状況下で、父や肉親の命が奪われた事実。それを大人になり反芻する中で、悔やみきれず悲しみと怒りが湧いた。
小学校教諭になり、授業で戦争の理不尽さを説いたあと、児童の1人からこんな質問を受けた。「先生、なぜ戦争中、戦争反対と言わなかったんですか」。何と説明すればいいのかわからず戸惑った。「戦時中、子どもだった僕たちは、子どもの目線でしか戦争を知らない。しかし、戦争の体験者として、今の子どもたちの『なぜ』に応える必要がある」と改めて気付いた。
10年前、語り部に推薦され、体験を伝える決意を固めた。語り部として子どもたちに戦争の話をするとき、高橋さんは戦時中、尋常小学校で使われていた教科書を資料として見せる。「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「日本一の高山は臺灣(たいわん)の新高山なり」―――。「僕は当時の体験や気持ちを伝えるだけ。平穏な暮らしのためどうするべきか。そこからは皆さんに考えてほしい」と高橋さんは話す。
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田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
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