「伝えていくことが使命」語り部 三杉克篤さん(73・今泉)
「本当は今でも話すのが辛い。それでも伝えていかなければならない」。語り部をはじめ10年。三杉克篤(かつひろ)さんは、強い”使命”を胸に講演を続けている。
父の勇作さんは吉田島農林学校、母の喜美江さんは厚木高等女学校でそれぞれ教員をしていたという。
勇作さんの元に招集礼状が届いたのは1943年9月21日だった。それから数日後、「万が一」を考え、遺書を喜美江さんに託し出征した。この約8カ月後、中国・河南省洛陽で戦死、32歳だった。克篤さんは当時2歳。父の声もぬくもりも何も覚えていない。戦地から届いた数十通の手紙と1通の遺書、数枚の写真、戦死後家族の元に返された軍事手帳など。勇作さんが愛用していた鞄の中に大事にしまってある。「これが私にとって父の全て。全部なんです」。
初めて遺書を読んだのは、27歳の結婚前だった。「克篤は出来たら立派な教育者にしてほしい」そうつづってあったという。すでに高校の社会科教員として教壇に立っていた克篤さん。披露宴の最後に、あふれ出る涙とともに「父の遺志を継ぎ、立派な教員になります」と宣言。厚木西高校の校長として定年を迎えるまで、その遺志を胸に走り続けてきた。
母の喜美江さんは、2007年に95歳で他界した。その翌日、亡がらの前で叔母がポツリポツリと語り始めた。「あなたのお母さんは、お父さんが戦死した時にこう言ったの。手がなくても、足がなくてもいい。何でもいいから生きて帰ってきてほしかったって」。
今でも涙が止まらないという。「母はずっと”母”だった。”妻”としての思いを子どもたちの前で見せたことは一度だってなかった」。勇作さんは享年32歳、喜美江さんは95歳。「父に温かく迎えられ、きっと今頃短かった2人の生活をやり直しているでしょう」と両親の幸せを祈る。
「戦争と家族の絆」をテーマに講演を行う。「戦争のせいで引き裂かれてかわいそう。なぜ国のために家族を捨てて命を落とさなければならないのだろう」。多くの感想が寄せられている。
家族と離れ異国で戦死した父、残された人の思い、家族の大切さを伝え、「平和を考えるきっかけに」と願う。これからも語り部として伝え続ける。
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田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
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