特別企画 戦後70年 記憶をつづる 〜寄せられた手記から〜
こわかったB29
昭和15年生まれの私は、父が満洲に出征し、母と私と弟3人で東京の用賀に住んでいました。昭和20年、自宅上空をB29が飛びかい、焼夷弾が雨のように落ちてきました。あちらこちらに火の手が上がり、空一面が真っ赤に。叔父が庭に掘ってくれていた防空壕に身を寄せ合い、ローソクの灯りでじっと耐えていました。いとこは庭に落ちた不発弾が爆発して片手を失いました。東条英機の家をめがけて攻撃したものだと後で知りました。小学校に入学して母の手作りの防空頭巾をかぶり、ノートや鉛筆を入れる手さげを端切れで縫ってもらいました。学校も半焼して、大きな桜やイチョウの木の下で「アイウエオ」と先生が大きな紙に書いて教えて下さいました。父は私が小学2年の時に復員し、両手のあることが嬉しくて弟と抱き付きました。10歳の時に二男が生まれ、数年後に母は食糧不足がもとで苦労が絶えず、亡くなりました。庭を耕して皆で分けあって食べたサツマイモの茎や葉も忘れられません。太平洋戦争終戦から70年の今年、小学6年と4年の孫に当時を知ってほしいと文章にしました。
■萩が丘 山内由紀子(74)
武器なしの軍隊
昭和20年8月、私は数え年18歳、旧満洲奉天市(現在の中国瀋陽市)に居た。満洲医大予科で寮生活中であった。8月15日正午、玉音放送が始まった。遠方で雑音が入り聞きづらい。終戦か否か大騒ぎとなる。更にそこへ赤紙(召集令状)が私に届いた。混乱が倍加するなか、結局全員の拍手に見送られ指定の小学校へ向かった。皆10代か、中年のオジサンばかりの部隊である。第二国民兵だ。毛布等の支給品が配られたが銃は木銃、帯剱はブリキ製。武器なしの軍隊である。何の為の召集?皆呆然となった。木銃での銃剱術が始まった3日後に、突然校庭に集合命令、部隊長斉藤中佐の訓示があった。「これは私の独断である。諸君は家族のもとに復帰せよ、本隊はこの場で解散する」。複雑な思いで皆走り出した。そして間もなくソ連軍が侵入して来た。若し隊長の独断がなければ全員確実にシベリア送りになっていたはずだ。その日から1年後の引き揚げが始まるまで、女性は髪を切り、晒(さらし)で固く胸を潰し、不安な日々を送る事となる。一方、侵入兵が日本人から巻き上げた腕時計を両腕に巻き付け、袖をまくって得意気に見せつける光景は今も忘れられない。多くの人の不幸を救った斉藤中佐を帰国後探したが遂にお礼を申しあげる事は出来ず、痛恨の極みであった。
■沼代新町 大林輝明(87)
〈写真提供/秦野市ほか〉
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田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
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