秦野版 掲載号:2015年8月29日号
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特別企画 戦後70年 記憶をつづる 〜寄せられた手記から〜

社会

出征前の記念撮影(石川さん提供)
出征前の記念撮影(石川さん提供)
8月15日の母

 国府津の駅を降りて背中いっぱいの荷物を背負った23歳の母は、3歳半の私の手を引き1里あまりの田舎道を歩いていた。小田原も空襲が危ない、長男の私だけでも疎開させよ、実家の祖父母の勧めでその遠縁にあたる農家に疎開に行く途中だった。炎天の道に疲れて私がぐずると、母は懐にある半握りの砂糖からひとつまみを紙に移し私になめさせる。そのあと、2〜300メートルごとに砂糖をなめ、母のモンペの陰になって一口の水筒を口にしつつ向かった(途中馬車引きのおじさんが、荷車にオレを乗せてくれ母はいくつかの干物をお礼に渡したという)。農家への入り口は暗く涼しい竹林の切り通しだった。母は米や魚の干物、味噌、砂糖などの礼物を疎開先の農家に渡すと、井戸水1杯を飲んだだけで帰って行った(そうだ)。オレはその時疲れ果てて寝入っていたのだろうか、帰りゆく母の面影もみていない。生涯でたぶんただ一度、8月の戦争のあの小半日よ。

■桜町 石川又一郎(73)

戦争と転校と

 昭和16年、私が国民学校に入学した年の12月8日に大東亜戦争が始まりました。学校では米英を「撃ちてし止まむ」のポスターが数多く貼られ、食事時でも兵隊さんが頑張っているからと先生から毎日のように言われ、南の方に頭を下げていました。昭和19年に国の方針により子供を守ろうと、親戚のない私は各町内の3年生から6年生迄40人程で市外のお寺に疎開をして学校に通いました。毎日、防空頭巾にゲートルを巻いての通学でした。19年12月名古屋の家が地震で倒れ、家族が引っ越しました。20年1月に三河地震が発生し、当時戦争末期で国は動揺をさける為本当の事を発表せず、私は寺から倒れた家の後片付けに毎日通いました。20年1月末に父が私のもとに来て、名古屋へ戻るよう言われました。忘れもしない20年3月12日、名古屋の空襲で焼夷弾によって火の海の中、鉄道の高架堤により火が寸断され一家5人命だけは助かりました。一面焼け野原でした。当時、父が戦時部品会社に勤めていた関係で空き家を寮にして転々と移り毎日を過ごしました。毎週のように空襲が続き防空壕でかくれる様な生活でした。工場で父が負傷し、これ以上は難しいと感じたのでしょうか。工場も爆弾で全壊した為、遠い親戚を頼り、三重県に4月から5月迄、愛知県に6月から移り終戦を迎えました。戦争のない平和が続きますように。尚私は国民学校4年生と5年生各3回転校しました。

■菩提 横井俊夫(80)

平和のありがたさ

 戦後70年、当たり前のように今私たちはシャワーを浴び、パジャマを着て、エアコン等をつけてベッドに入って休んでいるが、いつ空襲があるかわからない当時は、名札をつけた上着、モンペ姿のまま寝ていたのである。東京に住んでいた私は国民学校(小学校)2年、弟3歳、父は戦地(中国)に行き、妊娠中の母はどんなに心細かったであろう。空襲が激しくなり、東京の学校は閉鎖になり、私は一時、栃木県の知人の家に預けられた。それから出産した母、弟、妹と福岡県に疎開した。その時の汽車の切符は、何日も並んでやっと求められた。ぎゅうぎゅう詰めの列車で、布おむつや僅かの食料を持ち、乳飲み子をおぶった母は大変であった。食料は配給で到底足りず、イモ等農家へ買い出しに行ったが、母は和服を土産に持った。文房具も不足し、鉛筆も先を尖らせないで2本と決められた。消しゴムは無く、間違えた箇所は二本線を引くように教えられた。素敵な学用品をたくさん持っている孫たちに戦時中の話をし、物を大切にするように言う。父は復員して来た。平和のありがたさをつくづく思う今日この頃である。

■南矢名 三原ミヨ(79)

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