現在の二宮町は、江戸時代に「一色村」・「中里村」・「二ノ宮村」・「山西村」・「川勾村」の5つの村に分かれていたものが、明治22年(1889年)4月に合併して「吾妻村」となり、昭和10年(1935年)11月3日に「二宮町」と改められたものである。二宮町では町制が施行されてから10年ごとに記念行事が行われ、今年はちょうど90周年にあたる。私は7月19日と20日に行われた元町(富士見が丘一丁目・二丁目・三丁目と松根を含む)に鎮座する八坂神社の祭礼を取材させていただいた関係で、11月3日の二宮町町制施行90周年記念で行われた神輿パレードにおいて、元町と富士見が丘に密着取材を依頼した。
「相模国神社祭礼」は神奈川県内(旧相模国)の神社の祭礼を中心に紹介するウェブサイトで、神社祭礼の活性化を主な目的とし、文献調査と実際の祭礼の取材を行っている。
復活! 明治5年(1872年)再興の周助神輿
本来、元町では町制施行記念の神輿パレードに八坂神社神輿を出していたが、90周年では山西から譲り受けた素木神輿(塗りのない神輿)を担ぐことになった。この神輿は山西の宮大工であった周助(しゅうすけ)によって建造され、昭和60年(1985年)頃まで山西の八坂神社の祭礼で担がれていたもので、今回のパレードのために修復された。今までは鳳凰(大鳥)にある刻印から明治4年(1871年)に建造されたと考えられていたが、今回の修復で明治5年(1872年)に杉崎周助政康によって再興された墨書が発見され、再興の意味が既存の神輿を修復したのか、あるいは新規で建造し直したものかは定かでないが、いずれにしても歴史的に価値のある神輿である。
山西ではこの周助神輿の老朽化に伴い新しく神輿を建造したことから、周助神輿はしばらくの間眠っていたが、山西からこの神輿を廃棄するという話が出たことから、「元町神輿保存会(元神会)」が同会の神輿として譲り受けた。周助神輿は傷みが激しかったため、茅ヶ崎市にある神輿提灯工房の「神輿康」で、元の状態をできるだけ残す方向で必要最小限の修復を行い、今回の神輿パレードで復活する運びとなった。
パレードに参加する神輿は、中里の明星神社神輿、通り三町の八坂神社神輿、山西の八坂神社神輿、飛龍会神輿(川勾神社)を加えた計5基で、他の4基の神輿が塗りやきらびやかな飾り金物で鮮やかに化粧されている中、歴史の重みをまとった重厚感のある元町の周助神輿は、十分すぎるほどの存在感で神輿パレードに花を添えたのである。
我らの祭りを! 元町の八坂神社祭礼
元町には山西から譲り受けた元神会所有の周助神輿の他に、元町に鎮座する八坂神社の宮神輿であるもう一基の周助神輿を所有しているが、この神輿には壮絶な歴史がある。
かつての二ノ宮村は現在の通り三町である「上町」・「中町」・「下町」と、今回取材をした「元町(入会/入合)」の四部落で構成され、通り三町の地区内(二宮下向浜86番地)に鎮座していた八坂神社(現在は社地が消滅)の祭礼では、この神社で所有していた1基の神輿を四部落が時間を決めて順番に担いでいた。しかしながら、祭りの日程や巡行経路などを巡って部落間での争いが絶えず、四部落での渡御はとかく紛争に終わり、円満な祭典執行は悩みの種であった。そこで、元町は川勾神社に懇願へ回り、明治3年(1870年)に元町へ新たに八坂神社と、杉崎周助政康の父である政貴によって建造された神輿が祀られ、これにより、元町単独としての祭礼が執り行われるようになったのである。
これで紛争の問題は解決されたと思われたが、元町と通り三町の祭礼日が同じであったため、以降も紛争が絶えることはなかった。明治40年(1907年)の祭礼では通り三町と元町の神輿が現在の中南信用金庫の辺りで遭遇し、大喧嘩の末に通り三町の神輿が田んぼの中に落とされたという言い伝えも残されている。このような状況から、元町と通り三町の区長や宮世話人が話し合い、明治43年(1910年)に元町の祭礼日をずらすことで、ようやくこの紛争に終止符が打たれたのである。もちろん、現在は通り三町と元町は良好な関係が築かれており、神輿パレードでは双方の神輿が共に二宮駅からラディアンを練り歩く。
元町に囃子の響きを! 大山囃子の伝承者 守泉長次
元町には祭り囃子(ばやし)を演奏する団体として「元町北祭囃子保存会(以下、元北)」と「元町南囃子連(以下、元南)」、そして「富士見が丘二丁目祭囃子保存会(以下、富士見二)」の3つの囃子連があり、3団体共に90周年の神輿パレードに参加した。元北は元町の八坂神社の祭礼と同様にトラックの移動屋台で、元南は手押し型の簡易的な移動屋台で参加し、二宮町の他の囃子団体である「中里祭囃子保存会」、「中町囃子保存会」、「釜野太鼓連」、「川勾祭囃子保存会」の4基の屋台と共に神輿行列に加わった。また、富士見二は「梅沢はやし保存会」と共に居囃子(出発・到着地点のみ)での参加となり、神輿パレードでは合計8つの囃子団体が二宮町の伝統芸能を披露した。次に、元町の祭り囃子の歴史について紹介する。
元北は昭和54年(1979年)に、富士見二は昭和60年(1985年)に発足し、共に中里祭囃子保存会から大山囃子を伝承している。なお、元南の囃子がいつ頃から始まったか記録は無いが、3団体の中では最も歴史が古いと言われ、元北および富士見二とは曲調が若干違うだけで、同じ大山囃子系統に分類される。
この様に元町の囃子は比較的近年に誕生しているが、この立役者の一人が守泉長次氏である。守泉氏は中里の生まれで、「中里祭囃子」が昭和50年(1975年)に二宮町の重要無形民俗文化財に指定された時の中心的なメンバーであり、二宮町の大山囃子を語る上では欠かせない重要な人物である。この守泉氏の住まいが元町北にあった関係で、元町北祭囃子保存会の初代会長を5年務め、その後は相談役も務めた。守泉氏は中里祭囃子保存会の一員として元北だけでなく、富士見二にも大山囃子を伝承した。また、元町南は途中で笛の伝承が途絶えてしまったため、近年に中里の笛を習っている。
中里に伝わる祭り囃子は江戸時代の文化文政期(1804年〜1830年)の頃に、現在の平塚市金目から伝承されたという言い伝えがあり、二宮町の大山囃子の源流となる囃子である。守泉氏は地元の二宮町以外にも平塚市の須賀などに大山囃子を伝承し、特に篠笛の名手であったため、笛の伝承にも大きく貢献している。奇しくもこの記事を執筆している伊勢原市民の私は、中里祭囃子が重要無形民俗文化財に登録された年に生まれ、更に今から約30年前に守泉氏から笛を習っており、二宮町は私にとって非常に思い入れの強い地である。残念ながら、守泉氏は平成13年(2001年)に他界しているが、守泉氏が元町に残した祭り囃子は今でも大切に受け継がれ、特に近年の元町の祭り囃子の盛り上がりには目を見張るものがある。
取材を終えて
今回の取材を通じて、二宮町では各地区に鎮座している神社の祭礼のほか、毎年10月に開催される町内の囃子団体などが集結する「二宮町民俗芸能のつどい」、そして10年毎に開催される神輿パレードなど、地元の伝統行事および伝統芸能の継承に力を注いでいる町であることを改めて感じた。また、元町の八坂神社の祭礼は、先人達の並々ならぬ苦労と努力によって作り上げられてきたものであり、現在では、この史実を知る方は非常に少ないと思われるが、元町地区の皆様の祭礼に対する熱意からは、先人達から受け継がれてきた祭りへの強い思いが伝わって来るのである。
近年の少子高齢化や祭礼に対する価値観の変化から、祭礼の運営は非常に厳しい状況にあり、元町地区も決して例外ではない。しかしながら、元町では多くの住民の献身的な協力により、現在でも非常に盛大な祭礼を継続しており、特に、富士見が丘二丁目祭囃子保存会と元町北祭囃子保存会においては、この逆境を跳ねのけるかのような発展ぶりが見られ、祭礼の活性化にとって非常にお手本になる取り組みを行っている。
最後に、二宮町にお住まいで、神輿や祭り囃子、神社や町内会の運営など、興味がある方がいれば是非、地元の関係団体にお声がけを頂き、地域の活性化の為に協力して頂けますと幸いです。きっとどの団体も温かく迎えてくれると思います。
今後もこの素晴らしい二宮町の伝統行事および伝統芸能が、後世に末永く引き継がれて行くことを祈願致します。
タウンニュース市民ライターとは
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