横須賀・三浦版【8月29日(金)号】

株式会社サンエー クルマエビを名物に 陸上養殖開始、11月頃出荷へ

 太陽光発電システムの設計・施工・販売を主業とする(株)サンエー(本社・横須賀市三春町)は、クルマエビの陸上養殖を開始した。本社の倉庫を養殖場に改装し、約8千匹を飼育。今年11月頃の初出荷を見込んでいる。同社の庵崎栄代表は「クルマエビの陸上養殖は関東圏では珍しい。おいしさと共に安全・安心な横須賀のブランドとして定着させたい」と話している。

 古くから高級エビとして知られるクルマエビは暖流系の内湾域を中心に生息しており、九州地方や沖縄県などで養殖が盛んだ。

 陸上養殖は、陸地に人工的に設置した水槽で飼育する形態。海水などを継続的に引き込む「かけ流し式」と飼育水を浄化装置で循環させる「閉鎖循環式」の主に2つに分けられる。陸上養殖は、人為管理による生産性の向上、魚種の制約がないといったメリットがある。漁業権が不要で、誰でも参入しやすいのが特徴の一つであり、水産省によると異業種からの参入も増加傾向にあるという。

 同社ではクルマエビの陸上養殖事業者から学んだノウハウを元に今年5月から取り組みを開始した。縦約3m、横約2mのプールを2基用意し、それぞれに0・5cmほどの稚エビ約4千匹を放流。水質や水温、室内温度、病気の管理や餌やりなどを同社の社員数名で行っている。しかし共食いなどで数を減らしてしまうため、「全体の7割ほどを出荷できたら」と鈴木龍成専務は目標を掲げる。体長が15〜18cmほどに成長するとされる11月頃を出荷の目途と想定しており、出荷量は約260kgを見込む。

遊休施設活用も視野

 養殖用プールの1基は海水を引き込み循環させるかけ流し式、もう1基は水道水などを人工海水にして使用する閉鎖循環式を採用。知見を収集し、今後は山間部など海から離れた場所でも養殖を可能にして出荷量拡大をめざす。将来的には空き家や廃校といった遊休施設の活用も視野に入れており「ビジネスとしてだけでなく、社会課題の解決にも寄与出来たら」と庵崎代表は狙いを話している。

年3t安定的に

 初回出荷後は現存する2基は残しつつ、クルマエビにとってより過酷な環境下を用意し、そこに新たに5基を追加する予定だ。今後、年間3tの出荷を目指していく。また、養殖場ではセンサーカメラやAI、同社の本業である太陽光発電システムなどを有効活用し、管理にかかる人件費の削減を図り、安定的な供給システムを構築していく。
アートバトル「筆ロック」の一場面

障がい者と健常者 アートで競演 共生社会めざす新イベント

 「筆ロック」と名付けた即興アートバトルを手掛けている一般社団法人「筆WORK」が、障がいの有無にかかわらず誰でも参加できるアートバトルイベントを10月に開催する計画を進めている。多様な人々が共生する社会の実現を目指し、横須賀市との協働事業として実施する。新進気鋭のアーティストらの才能発信の場を創出すると同時にアートを介した地域文化の活性化も図る。

「筆ロック」の発展形態

 上町商店街連合会が10月11日(土)に実施する「うわまつり」の関連企画として行う。市立うわまち病院が移転したことで一時的にイベントスペースとしてオープンした「うわまち広場」を会場とする。

 取り組みの背景には、障がいを持つ人々が文化活動や社会参加をする上での物理的・心理的な障壁がある。同法人の田ノ岡高志さんは、障がいのある人が才能を発揮し、自己表現する場が限られている現状を課題として指摘。通常の「筆ロック」のイベントも参加者の縛りを設けておらず、誰でも気軽に参加できるが、呼び掛ける対象者をあえて明確化することでイベントの趣旨を強く打ち出す。「アートを通じて障がいへの理解を深めるきっかけになれば」と田ノ岡さんは話している。

 イベントの中心となるのは、参加アーティストが即興で作品を制作し、トーナメント形式で腕を競うアートバトル。観客は制作過程を間近で見ることができ、一部のバトルの審査にも加わる。テーマに掲げる「アートと共生」を具現化するように、障がい者も健常者もひとりのアーティストとして同じ土俵で競い合iい、障がいの有無で人を評価しない社会の実現をめざす。市民がアートを通じて交流する機会にもしていく考えだ。

 同イベントは、社会活動を行う市民団体を後押しする横須賀市の「市民協働推進補助金」の採択を受けており、運営経費の一部を充当する。「今回のイベントを成功させ、毎年開催の定着を目指している」と田ノ岡さん。バトルの様子を動画で配信することで活動を広く伝達し、より多くの市民が楽しめる内容へと発展させていきたいと意気込んでいる。

 開催時間は午後1時から4時で観覧自由。募集するアーティストは16人。問い合わせは一般社団法人「筆WORK」〈メール〉info@fuderock.com 〈ホームぺージ〉https://fuderock.com

人生の最期を明るく考える一大イベント「終活フェスティバル」を主催する 牧野 由加利さん 横須賀市平作在住 41歳

終わりを意識すれば、今が輝く

 ○…いくつもの名刺、いくつもの顔を持つ。自分史を作成するライター、商品企画のコーディネーター、キムチ店の右腕、企業や個人の目標達成を支援するコーチング業、そして二児の母。はじける笑顔にエネルギーがみなぎる。その多彩な活動の根底は驚くほどシンプルで哲学的。「終わりを意識するからこそ、今が輝く」という生き方だ。

 ○…価値観の原点は「支える」喜び。それは大学時代のチアリーディング部での経験にある。選手として舞台に立つ中で、怪我をきっかけにマネージャーへ転向。そこで、自分が輝くこと以上に、仲間を励まし、チームを後方から支えることに「これだ」という確かな喜びと手応えを見出した。「プレイヤーよりも支える方が好き」。この発見が、その後の人生の指針となった。

 ○…大学卒業後、バレエ・ダンス用品の専門会社に就職。ダンサーという夢を追いかける人々を、商品企画という形で支える仕事に情熱を注いだ。転機は出産を経て会社を離れたこと。職業のカテゴリーの縛りから自由になり、何でもできる万能感を得た。まるで水を得た魚のように、アンテナに触れるプロジェクトに次々と関わっていくようになった。

 ○…一見バラバラに見える活動も「誰かの人生をより良くするために支える」という一本の線で繋がっている。自ら企画・主催する「終活フェス」は、人の生きた証を残したい、誰もがいつか迎える「死」というテーマを明るく、オープンに語り合える場を作りたい、とのストレートな思い。「終わりを意識することで、今、何をしよう。どう生きようって考えられる」。限りある時間を最高に輝かせるためのゴール設定。その提案を発信していく。

海上に浮かぶマークをめがけて親子で力を合わせてパドルを漕ぐ。コース取りも重要な戦術

三浦海岸海水浴場 ビーチににぎわい再び 親子SUP競争 熱い戦い

 2年ぶりに海水浴場が開設され、賑わいを取り戻した三浦海岸で8月23日、マリンレジャーのSUP(スタンドアップパドル)などを楽しむビーチフェスタが開かれた。

広大な砂浜を有する同海岸をマリンスポーツのメッカに位置付けたい京浜急行電鉄が企画。親子で協力してゴールをめざす「親子SUP競争」やボードの上で波に揺られながら身体をほぐす「SUPヨガ」の体験が行われた。

 SUP競争は、親子のペアが1本のボードに乗り、海上のマークを回航してビーチ際に設定されたゴールをめざすチーム戦。最短コースを見定め、息を合わせてパドルを漕ぎ進めるなどしてスピードを競った。

 三浦海岸発祥という「ビーチフィールダンス」も披露された=右下写真。波打ち際で寄せては返す波の力を感じながら身体を動かすフィットネスの新ジャンル。「開放感のある場所で行うことでストレスフリーを実感できる」と考案者で同協会を立ち上げた藤瀬みきさん。ウインドサーフィンでジャイブと呼ばれる風下周りのポーズを取り入れた振り付けなどもあるという。今後はビーチクリーンを取り入れたメニューを考案するなどして、このダンスを日本全国に広める活動を行っていくという。

上地市長を表敬訪問した「横須賀女子」の選手ら

小学生ソフトボール「横須賀女子」 仲間を信じて全力プレー 関東大会出場で市長訪問

 小学生ソフトボールチームの「横須賀女子」は、8月30日(土)から小田原市で開催される「第42回関東小学生男女ソフトボール大会」に出場する。5月に開かれた神奈川県予選を勝ち上がり、決勝リーグに進出。全国大会の出場権をかけた一戦は雨天中止で抽選となり、惜しくも逃した。

 チームは同月25日に横須賀市役所を訪問して、上地克明市長に関東大会での活躍を誓った。キャプテンを務める渋谷雛菜乃選手(池上小学校6年)は「どんな場面でもあきらめずに頑張ってきた。仲間を信じて全力プレーで戦い、笑顔で終わりたい」と意気込みを伝えた。これに応えて上地市長は「ソフトボールを通して他校にも仲間が広がる。素晴らしい試合を期待している」とエールを送り、「愛」の文字が記された記念キーホールダーを選手一人ひとりに手渡した。

紙芝居を上演する棚沢さん(右)と絵を担当している矢部さん

”夢の超特急”起源に特攻兵器 三木忠直の思い伝える紙芝居

 1964年の東海道新幹線開業に伴いデビューし”夢の超特急”とも呼ばれた0系新幹線。これの開発プロジェクトをけん引した技術者・三木忠直(1909─2005)は戦時中、横須賀市浦郷町にあった「海軍航空技術廠」で、抗えない命令の中、陸上爆撃機「銀河」や特攻兵器「桜花」の開発に携わった。平和と戦争、その両方に深く関わった稀有な技術者・三木の抱えていた葛藤や平和への思いを伝える紙芝居が8月23日、横須賀市本町の市民活動サポートセンターで行われた。三木の次女で逗子市在住の棚沢直子さんと親戚の矢部雅子さんが上演し、子どもから大人まで約50人が鑑賞した。

 1929年、三木が20歳の時、ドイツの飛行船「グラーフ・ツェッペリン号」が世界一周を果たした新聞記事を見かけたのをきっかけに”空飛ぶモノ”に興味を惹かれるように。海軍省に入省後は30代前半という若さで、技術者として国の重責を一身に背負った。しかし悪化の一途をたどる戦局の中で、「人間爆弾」と呼ばれた桜花の設計を命ぜられてしまう。

 一度発射されると、搭乗者は生きては帰れない。桜花は母機から発射されると敵艦めがけて滑空し、体当たりを行う。高速飛行を叶えるため機体は徹底的に無駄を省き、軽量化され、後に0系新幹線のボディにも採用された丸みを帯びた流線形が特徴的だった。そんな桜花は沖縄戦などに投入され55人の若者が命を落とした。

 戦後、三木は戦争加担への自責の念に駆られ、兵器転用がされにくい鉄道の道へ進んだ。運輸省の技術研究所へ入所すると、メンバー25人を率いる車両構造研究室の室長として国家プロジェクトをけん引。培った技術を活用し、粉骨砕身”夢の超特急”誕生に身を投じた。

新しいことに挑戦を

 紙芝居では、小田急ロマンスカーや湘南モノレールなどにも携わった三木の事績を紹介。「三木は飛行機の技術を戦後は鉄道に応用した。みなさんも何にでも興味を持つ好奇心と新たなことに挑戦する心を持って」と棚沢さんは呼び掛け、「戦争に二度と参加しないということを考える機会にしてほしい」と願いを込めた。

 紙芝居を鑑賞した高校3年生の女子生徒は「普段当たり前のように使っている乗り物の起源が、特攻機がきっかけの一つだったと知り、関心が高まった」と話した。

商品を撮影するすか子さんとInstagramアカウント

インフルエンサー「すか子」 市の魅力インスタ動画で 横須賀の子育て世代に評判

 横須賀愛、Instagramに乗せて--。市内の情報を発信する横須賀特化型のアカウント「すかなび」。企業とのタイアップ投稿やおでかけスポットの紹介などが市内の子育て世代を中心とした女性に受け、フォロワー数は約1・8万人を数える。運営者は2年前に横浜から横須賀に移り住んだ2児の母で”街の広報担当”を自称する「すか子」。「横須賀の人は地元愛が強い一方、都市部に比べて『何もない』と謙遜する人も多い。本当はたくさんある市の魅力を発信したい」

 横須賀に移住してきた際、子育てに関する情報の少なさを感じ、次第に孤立感も覚えたことが発信の原点だ。「新しく横須賀に来る人に同じような思いをしてほしくない」。以来、90秒までの短尺動画を共有できる「リール動画」を用いて、発信を開始。現在では平均2・2万再生を誇り、約半数以上が横須賀市民の視聴だという。

 企業からのPR案件も受けている。これは無償での活動に疲弊してしまうクリエイターを増やさないため、そして「デジタルにお金を払う事業者が市内にもいる」というロールモデルを示すことで、横須賀のSNS活用を活性化させる狙いからだ。

 自身のアカウントを「困った時に頼れる場にしていけたら」と話している。sukanabi_yokosukaで検索。

岩戸納涼花火 校庭に光のカーテン

 地域による自主運営イベント「岩戸納涼花火大会」が8月22日、岩戸中学校グラウンドで開かれた。2023年夏に始まり今年で3回目。長島正志さんを委員長とする実行委員会が中心となり、協賛金集めから会場設営まで可能な限り自分たちの手で行っている。

 目の前で打ち上がる迫力満点の花火を一目見ようと約3000人が来場。岩戸中の生徒よる太鼓の演奏でスタートし、音楽に合わせてスターマインやナイアガラ=写真=など約700発の花火が次々と打ち上げられ、劇場のような演出で観衆を魅了した。

幼児教育の質と専門性向上 私立幼稚園協会の研究大会

 神奈川県私立幼稚園連合会が主催する「神奈川県私立幼稚園教育研究三浦半島地区大会が」8月22日、横須賀学院チャペルホールで開かれた。

 幼児教育の質と専門性の向上を目的に、園児らの健やかな育ちにつなげる取り組み。同地区内の幼稚園教諭と関係者約300人が集まった。

 研究発表として、葉山町の「あけの星幼稚園」が環境問題を取り入れた教育の実践を報告。記念講演では、「AIに負けない力」をテーマに、お茶の水女子大学名誉教授の内田伸子さんが、遊びを通して非認知能力(学力テストや知能テストでは数値化できないスキル)が育まれるとする考えを伝えた。

 横須賀市私立幼稚園・認定こども園協会の余郷有聡会長=写真=は「研究大会を実りある機会にして欲しい」と挨拶した。

テレビ体操講座 NHK出演講師迎え

 横須賀市ラジオ体操連盟は10月5日(日)、高齢者の健康増進を目的に「テレビ体操から学ぶ健康づくり講座」を開く。

 NHKテレビ・ラジオ体操指導者の鈴木大輔さん、アシスタントの藤元直美さん、ピアニストの幅しげみさんを講師に迎える。会場は横須賀市総合福祉会館 第1音楽室。時間は午前10時30分から正午。参加無料で定員100人。参加には連盟加入が必要となる。

 問い合わせは同会副会長の葉山さん【携帯電話】080・6689・5652。

防災協定を締結 横須賀市内自治会と湘南信金

 横須賀市内360の自治会・町内会で組織される「横須賀市自主防災組織連絡協議会」は8月25日、市内に16の店舗を構える湘南信用金庫と防災協定を締結した。

 大規模な地震や風水害の発生に備え、両者が連携して防災に取り組む。具体的には、同協議会が実施する避難場運営訓練に同金庫の職員が参加するほか、発災後に各店が備蓄している飲料水や食料を地域住民に可能な限り供給する。避難所で金融相談窓口も設ける。

「自然災害が激甚化している昨今、金融サービスだけではなく、地域の安全・安心を守る役割を果たしていく」と同金庫の鷲尾精一理事長=写真右。同協議会の小川喜久雄会長も「能登半島地震に加え、先日の津波警報の影響で災害に対する危機意識が高まっている。金融面を含めたサポートは頼もしい」と期待を述べた。

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横須賀高校の成井琴子さん、芝奈紬さん、小田悠加さん、橋本明さん

神歯大の中高生学会 探求する若者応援 横高と緑ヶ丘女子が発表

 若者のアカデミックな活動を支援する神奈川歯科大学の「探求する小中高校生のための学術交流会」が8月20日、同大で開かれ、自然科学、医療、社会学などをテーマに22のグループ・個人が研究成果を発表した。

 聴衆との質疑応答のやりとりを通じて、考えを深めていくポスターセッション。研究の進め方やアプローチの仕方などを学び合う機会となった。今回は地元から横須賀高校と緑ヶ丘女子高校のグループが参加した。

 横須賀高は、「飴の溶ける時間のコントロール」をテーマにした研究を紹介。幼児などが薬を嫌がらずに服用できるよう飴に混ぜることを発案。自身の原体験をヒントにした。「体温」と「唾液」が飴の溶け方に影響を与えるという仮説を立てて実験を繰り返し、唾液量による違いを発見。この結果を応用して、飴が溶ける時間を意図的に長くし、口中に物体があることで禁煙欲を抑える商品のアイデアも思いついた。今後は飴の溶解時間をコントロールする研究に発展させる。

 緑ヶ丘女子高は、新入生の増加を生徒主導で取る組む研究に着手。イベント運営などで成果につなげていく取り組みを報告した。

 両校の発表は審査員特別賞を受賞した。

戦後80年 語り継ぐ記憶 Love Day1945・横須賀占領の日 元兵士の証言と「猿島」の終戦

 1945年8月。無条件降伏をした日本だが、次の課題は”占領”だった。連合国軍の大部隊が最初に目指したのは横須賀。その目と鼻の先には、防空砲台の役目をした猿島があった。記録から、終戦の動きに迫る。

■上陸地は横須賀

「Love Day」――米軍は占領のXデーをこう呼んでいた。この名は沖縄上陸作戦でも使われたもの。敵本土への上陸に当たり戦闘態勢を組んでいたといえる。

 8月21日、連合国はフィリピンで日本側特使と協議し「陸軍は厚木、海軍・海兵隊は横須賀」を上陸地と決める。日本軍の武装解除は進みつつあったが、一部勢力が不穏な動きを見せていた。その本拠地に乗り込んでいくわけだから、一触即発の事態も予想される。戦争を”本当の意味で終わらせる”ことの難しさに、日本も連合国も直面していたのだ。

 上陸日は8月28日になったが、天候が悪化したため8月30日に。これが占領の日となった。

■最初の上陸地は?

 午前3時15分、米英軍総勢4千名が東京湾に入る。そして5時58分、日本本土に上陸を果たす。――しかしそこは横須賀ではなかった。

 実は「背後を牽制するため」に対岸の富津(ふっつ)岬を最初の上陸地点にしたのだ。この時海兵隊を迎えた最初の日本人は「たった2人の警察官」だったという。

■横須賀に上陸

 そして9時29分、ついにグリーンビーチと名付けられた横須賀海兵団南側に上陸。ここは現在の米軍基地内にあるマクドナルドの前あたりと思われる。ほぼ同時刻にレッドビーチと呼ばれた追浜飛行場にも上陸したのだった。

 上陸した先では、事前の指示通り、白い腕章をした日本人通訳が数人立っていた。通訳の数が足りず、鎮守府の役人やタイピスト、さらには中学の英語教師にまで依頼したという。意思の疎通は何とも微妙だったようだが、恐れていた日本側の抵抗は無く、占領は順調に進んでいった。というのも、事前に「もしピストルの一発でも発射されれば、その時点から武力進駐に切り替える」という説明があったようだ。日本側も相当警戒していただろう。

 こうして、現在も残る鎮守府庁舎に星条旗が掲揚された。この星条旗は、グアムや沖縄が占領された際に掲げられた旗と同じものだった。

■貴重な証言

 横須賀上陸の10分後、別の部隊は猿島へ向かっていた。それは米ではなく英軍だったが、どのように上陸したのか。それを猿島で迎えた元兵士の貴重な証言がある。

 横須賀市が2004年に発行した文化財調査報告書にある聞き取りに登場しているのは、元中尉のTさん。1922(大正11)年に生まれ、終戦当時は22歳だった。前年に海軍予備学生として海兵団に入隊したばかりだったというが、その経歴に目が釘付けになった。猿島に赴任する直前「伏龍(ふくりゅう)隊」に所属していたのだ。

■特攻から別世界へ

 伏龍は本土決戦時、潜水具をつけた兵士が棒の先の機雷を敵の船底に直接当てて爆発させる、というとんでもない発想の特攻兵器。野比海岸でも訓練が行われ、横須賀だけで訓練中に10名もの死者が出ていたという。ところが、Tさんは喘息の持病があったため、後に砲術学校を経て対空射撃の指揮官として猿島へ赴任する。終戦直前、7月1日の事だ。

 異動先の猿島は、別世界だった。別の元兵士の証言によると、百名ほどの兵がいて、鎮守府が近いため食料は豊富だったそう。自由時間には魚釣りをするなど、のんびりしたムードだった。

 命を捧げる事を覚悟し、つい先日まで無謀な特攻兵器の訓練をしていたTさんは、どんな思いだったのだろう。

■猿島の戦い

 ところが、いきなり実戦が訪れる。7月18日の空襲では横須賀港で戦艦長門が攻撃されるなど大きな被害が。空を狙って戦闘を繰り広げた猿島では3名が戦死したという証言もある。入隊してたった10カ月のTさんは、生と死の境を目まぐるしく行き来することになっていたのだ。

 こうして迎えた8月15日。玉音放送ではなく軍からの報告で敗戦を知ったTさんは、その夜のうちに文書類を燃やすなど、今度は指揮官として戦後処理に当たることになった。そして、占領軍を待ち構える3人のうちの1人になるのだ。

■英軍の上陸

 島に残った兵士には「飯盒(はんごう)と米、2カ月分の給与を支給して帰した」というTさん。島の武器を指示通り使用不能にし、ついにその日を迎える。1m四方の白布を竹に括りつけ、海岸に立った。

「(来たのは)米兵だと思っていました。確か2艘の上陸用舟艇で波止場付近の砂浜に来ました。40〜50人くらい、銃を抱えて次々と上陸して来ましたので、あまりいい感じはしませんでした」

 上陸兵は見知らぬ土地で極度の緊張状態だったのだろう。かなり警戒しながら島内を見回っていたという。

 その後船に乗せられて本土へ行き、9月に復員。こうしてTさんの戦争は終わったのだった。

■史跡になった要塞

 80年前、B29と激しい戦闘を展開した猿島砲台は平成27年「国史跡」に指定された。明治から昭和にかけて首都を守ろうとした砲台群が、史跡として認定されたのだ。

 現在、年間20万人以上が訪れる観光スポットとなった無人島・猿島。その奥に佇む要塞は、たくさんの教訓を、今に生きる私たちに静かに投げかけている。(文・藤野浩章)

生クリームを盛り付ける参加者

モアーズシティ 親子でケーキ作り体験 夏休みイベントに18人

 「横須賀モアーズシティ」は8月24日、2階にあるカフェ「カフェコムサ」で子ども向けのパティシエ体験を開いた。同施設の夏休みイベントの一環で、市内外から8組18人が参加した。

 子どもたちは、コック帽と首元にはタイを着用。パティシエさながらの格好で同店スタッフの指示に沿い、桃とブドウをふんだんに盛り付けたケーキを作成した。慣れない作業に手こずりながらもスタッフや保護者らの協力を得て、完成させていた。その後、同店のショーケースに陳列されると子どもたちは達成感に包まれた様子で喜んだ。

 ケーキに使われたブドウは藤沢産の「藤(ふじ)稔(みのり)」だったこともあり、県の果物や野菜に親しんでもらおうと、神奈川県農政課の職員も参加。県を代表する農林水産物や加工品を認定する「かながわブランド」や、ブドウの生育過程などについて説明すると、子どもたちは「知らなかった」などと口々に話し、興味深そうに耳を傾けていた。

三崎・北条湾

三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜 第9回文・写真 藤野浩章

 ペリー来航以前、三郎助が正式に与力となる前の出来事をもう少し追っていきたい。というのも、この時期のあまりに激しい世の動きが、結果的に彼の貴重な"場数"になったはずだからだ。

 1839(天保10)年3月、18歳の三郎助は三崎役宅に勤務している。これは浦賀番所の出先機関で、三崎・北条湾のそばに応対所や与力詰所を備えた35畳ほどの施設があったのだという。

 江戸初期には三崎奉行が置かれていた、言わずと知れた海の要所。当初は下田奉行とともに江戸へ向かう船を厳しく監視する場所だった。

 やがてその役割は浦賀奉行所に集約されるが、出張所は残され、灯台の役割をする「城ヶ島篝屋(かがりや)」や入港船監視のための「安房(あわ)崎遠(とお)見(み)番所」の管理も担当していた。加えて難破船の処理や、近隣の村で起こった紛争の仲裁、火災時の聞き取り調査、そして「力持興行」つまり相撲の許可まで担当していたとか。

 さらには沖合で拾得した荷物の管理も行なっていて、ある時三崎の漁師が六尋(ひろ)(約10m)ある傷ついた「ごんどぶ入鹿(いるか)」(ゴンドウクジラ)を拾ってきたこともあったという記録があるらしい。それがどうなったのか気になるところだが"海上保安庁と警察と消防と裁判所"を合わせたような役割はここでも同じ。幕府の役人の中でも、ここまで港の暮らしに寄り添っていた仕事はなかなかないだろう。

 見習いとして目の前の仕事に懸命に取り組んでいた若き三郎助。そんな彼に、死を覚悟する試練が訪れる。ついに外国の「軍艦」が浦賀へやって来たのだ。アメリカ東インド艦隊司令長官、ビッドルだ。