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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.08.29

三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第9回文・写真 藤野浩章

  • 三崎・北条湾

 ペリー来航以前、三郎助が正式に与力となる前の出来事をもう少し追っていきたい。というのも、この時期のあまりに激しい世の動きが、結果的に彼の貴重な"場数"になったはずだからだ。

 1839(天保10)年3月、18歳の三郎助は三崎役宅に勤務している。これは浦賀番所の出先機関で、三崎・北条湾のそばに応対所や与力詰所を備えた35畳ほどの施設があったのだという。

 江戸初期には三崎奉行が置かれていた、言わずと知れた海の要所。当初は下田奉行とともに江戸へ向かう船を厳しく監視する場所だった。

 やがてその役割は浦賀奉行所に集約されるが、出張所は残され、灯台の役割をする「城ヶ島篝屋(かがりや)」や入港船監視のための「安房(あわ)崎遠(とお)見(み)番所」の管理も担当していた。加えて難破船の処理や、近隣の村で起こった紛争の仲裁、火災時の聞き取り調査、そして「力持興行」つまり相撲の許可まで担当していたとか。

 さらには沖合で拾得した荷物の管理も行なっていて、ある時三崎の漁師が六尋(ひろ)(約10m)ある傷ついた「ごんどぶ入鹿(いるか)」(ゴンドウクジラ)を拾ってきたこともあったという記録があるらしい。それがどうなったのか気になるところだが"海上保安庁と警察と消防と裁判所"を合わせたような役割はここでも同じ。幕府の役人の中でも、ここまで港の暮らしに寄り添っていた仕事はなかなかないだろう。

 見習いとして目の前の仕事に懸命に取り組んでいた若き三郎助。そんな彼に、死を覚悟する試練が訪れる。ついに外国の「軍艦」が浦賀へやって来たのだ。アメリカ東インド艦隊司令長官、ビッドルだ。

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