横須賀・三浦 社会
公開日:2025.08.29
戦後80年 語り継ぐ記憶
Love Day1945・横須賀占領の日
元兵士の証言と「猿島」の終戦
1945年8月。無条件降伏をした日本だが、次の課題は”占領”だった。連合国軍の大部隊が最初に目指したのは横須賀。その目と鼻の先には、防空砲台の役目をした猿島があった。記録から、終戦の動きに迫る。
■上陸地は横須賀
「Love Day」――米軍は占領のXデーをこう呼んでいた。この名は沖縄上陸作戦でも使われたもの。敵本土への上陸に当たり戦闘態勢を組んでいたといえる。
8月21日、連合国はフィリピンで日本側特使と協議し「陸軍は厚木、海軍・海兵隊は横須賀」を上陸地と決める。日本軍の武装解除は進みつつあったが、一部勢力が不穏な動きを見せていた。その本拠地に乗り込んでいくわけだから、一触即発の事態も予想される。戦争を”本当の意味で終わらせる”ことの難しさに、日本も連合国も直面していたのだ。
上陸日は8月28日になったが、天候が悪化したため8月30日に。これが占領の日となった。
■最初の上陸地は?
午前3時15分、米英軍総勢4千名が東京湾に入る。そして5時58分、日本本土に上陸を果たす。――しかしそこは横須賀ではなかった。
実は「背後を牽制するため」に対岸の富津(ふっつ)岬を最初の上陸地点にしたのだ。この時海兵隊を迎えた最初の日本人は「たった2人の警察官」だったという。
■横須賀に上陸
そして9時29分、ついにグリーンビーチと名付けられた横須賀海兵団南側に上陸。ここは現在の米軍基地内にあるマクドナルドの前あたりと思われる。ほぼ同時刻にレッドビーチと呼ばれた追浜飛行場にも上陸したのだった。
上陸した先では、事前の指示通り、白い腕章をした日本人通訳が数人立っていた。通訳の数が足りず、鎮守府の役人やタイピスト、さらには中学の英語教師にまで依頼したという。意思の疎通は何とも微妙だったようだが、恐れていた日本側の抵抗は無く、占領は順調に進んでいった。というのも、事前に「もしピストルの一発でも発射されれば、その時点から武力進駐に切り替える」という説明があったようだ。日本側も相当警戒していただろう。
こうして、現在も残る鎮守府庁舎に星条旗が掲揚された。この星条旗は、グアムや沖縄が占領された際に掲げられた旗と同じものだった。
■貴重な証言
横須賀上陸の10分後、別の部隊は猿島へ向かっていた。それは米ではなく英軍だったが、どのように上陸したのか。それを猿島で迎えた元兵士の貴重な証言がある。
横須賀市が2004年に発行した文化財調査報告書にある聞き取りに登場しているのは、元中尉のTさん。1922(大正11)年に生まれ、終戦当時は22歳だった。前年に海軍予備学生として海兵団に入隊したばかりだったというが、その経歴に目が釘付けになった。猿島に赴任する直前「伏龍(ふくりゅう)隊」に所属していたのだ。
■特攻から別世界へ
伏龍は本土決戦時、潜水具をつけた兵士が棒の先の機雷を敵の船底に直接当てて爆発させる、というとんでもない発想の特攻兵器。野比海岸でも訓練が行われ、横須賀だけで訓練中に10名もの死者が出ていたという。ところが、Tさんは喘息の持病があったため、後に砲術学校を経て対空射撃の指揮官として猿島へ赴任する。終戦直前、7月1日の事だ。
異動先の猿島は、別世界だった。別の元兵士の証言によると、百名ほどの兵がいて、鎮守府が近いため食料は豊富だったそう。自由時間には魚釣りをするなど、のんびりしたムードだった。
命を捧げる事を覚悟し、つい先日まで無謀な特攻兵器の訓練をしていたTさんは、どんな思いだったのだろう。
■猿島の戦い
ところが、いきなり実戦が訪れる。7月18日の空襲では横須賀港で戦艦長門が攻撃されるなど大きな被害が。空を狙って戦闘を繰り広げた猿島では3名が戦死したという証言もある。入隊してたった10カ月のTさんは、生と死の境を目まぐるしく行き来することになっていたのだ。
こうして迎えた8月15日。玉音放送ではなく軍からの報告で敗戦を知ったTさんは、その夜のうちに文書類を燃やすなど、今度は指揮官として戦後処理に当たることになった。そして、占領軍を待ち構える3人のうちの1人になるのだ。
■英軍の上陸
島に残った兵士には「飯盒(はんごう)と米、2カ月分の給与を支給して帰した」というTさん。島の武器を指示通り使用不能にし、ついにその日を迎える。1m四方の白布を竹に括りつけ、海岸に立った。
「(来たのは)米兵だと思っていました。確か2艘の上陸用舟艇で波止場付近の砂浜に来ました。40〜50人くらい、銃を抱えて次々と上陸して来ましたので、あまりいい感じはしませんでした」
上陸兵は見知らぬ土地で極度の緊張状態だったのだろう。かなり警戒しながら島内を見回っていたという。
その後船に乗せられて本土へ行き、9月に復員。こうしてTさんの戦争は終わったのだった。
■史跡になった要塞
80年前、B29と激しい戦闘を展開した猿島砲台は平成27年「国史跡」に指定された。明治から昭和にかけて首都を守ろうとした砲台群が、史跡として認定されたのだ。
現在、年間20万人以上が訪れる観光スポットとなった無人島・猿島。その奥に佇む要塞は、たくさんの教訓を、今に生きる私たちに静かに投げかけている。(文・藤野浩章)
ピックアップ
意見広告・議会報告
横須賀・三浦 ローカルニュースの新着記事
コラム
求人特集
- LINE・メール版 タウンニュース読者限定
毎月計30名様に
Amazonギフトカード
プレゼント! -

あなたの街の話題のニュースや
お得な情報などを、LINEやメールで
無料でお届けします。
通知で見逃しも防げて便利です!











