八王子版【8月14日(木)号】
給食の配膳にチャレンジするセント・ベル幼稚園の園児たち=学校給食課提供

幼稚園児が給食体験 就学への期待 高める狙い

 八王子市は7月から、私立幼稚園の園児を対象とした「学校給食体験」を試行実施している。就学前の園児に給食の美味しさや楽しさ、食事のマナーを伝え、小学校入学への期待を膨らませることが狙いだ。栄養士による食育講話も行われ、園児たちは来春からの小学校生活に胸を高鳴らせた。

 この取り組みは今年初めて試行実施しているもの。市の給食センター「はちっこキッチン」の夏季休業中の活用例の一つで、7月から8月にかけて市内の私立園3園で各1回ずつ行われた。

 実施したのは、セント・ベル幼稚園(並木町)、かしわ幼稚園(明神町)、みころも幼稚園 (初沢町)。実施した学校給食課の担当者は、「幼稚園でも園独自の給食が出る場合が多いが、弁当型の給食が配布されることもあり配膳作業がない園もあると聞いたため、今回の取り組みを通して小学校給食のメニューと一緒に配膳作業も体験してもらえたら」と事業の目的を説明する。

 また、実際に配膳や試食を体験することで、小学校入学後のイメージをしやすくし、生活環境の変化への戸惑いを少しでも軽減させたいという狙いもある。

園児らも興味津々

 7月31日にセント・ベル幼稚園のホールで行われた体験会では、給食の配膳・試食体験のほか、市の栄養士による「学校給食ってどんなもの?」といった紹介や食事のマナーについての話など、給食にまつわるさまざまな講話を実施。参加した年長組の園児約25人は興味津々で話を聞いた。

 市内に5カ所あるはちっこキッチンの中で、同園にははちっこキッチン楢原で調理された温かい給食が運ばれた。メニューは夏野菜のドライカレー、サラダ、みかんゼリー。子どもに人気なカレーを前に、園児たちからは「配膳がたのしかった」「おいしい」「もっと食べたかった」といった声が上がった。子どもと参加した保護者からは、「給食がおいしくて、小学校に入学するのが楽しみになったと思う」「苦手な野菜をまっさきに食べていてびっくりした。配膳を体験したり、みんなで一緒に食べる機会が持ててよかった」などという感想も聞かれた。

 同様の取り組みは、かしわ幼稚園、みころも幼稚園でもすでに実施されており、子どもたちは一生懸命配膳作業にチャレンジ。同課では「小学校入学後に始まる給食を楽しみにしてもらいたい」と話している。

優勝カップを手にする島村さん

全中フェンシングで2冠 陵南中2年 島村大翔さん

 世田谷区の駒沢オリンピック公園で7月19日から21日にかけて開催された「第11回全国中学生フェンシング選手権大会」で、八王子フェンシングクラブ所属の島村大翔さん(陵南中2年)が、男子エペと男子フルーレの2種目で優勝する快挙を果たした。

 小学生の頃から全国大会で優勝するなど活躍してきた島村さんだが、全中初出場の昨年はエペでベスト16、フルーレでベスト8となり、中学の壁を痛感。2回目の挑戦となる今大会に向けては、所属クラブでの練習に加えて他クラブや年上の選手との練習頻度を増やすなど「長い大会を勝ち抜く力とスタミナを養うことを意識してきた」という。努力の甲斐もあり、今年は事前に開かれたU17日本代表ランキング大会でベスト4入りを果たしてエペの、中日本大会で優勝してフルーレの全中出場権を勝ち取った。

さらなる活躍誓う

 迎えた全国大会。初日のエペではU17大会での好成績を自信につなげて勢いに乗り、決勝では同学年の元小学生大会チャンピオンとの対戦で終始試合のペースを握って勝利をつかんだ。翌日に行われたフルーレでも快勝を重ね、決勝では小学校低学年の頃からしのぎを削ってきたライバルと対戦。2日間で23試合をこなし体力は限界を超えており、序盤から劣勢となったが「本来のスピードはもう出せない。ゆっくりとリズムを変えながら、一瞬の動きで攻める」と戦略を変更。相手の虚を突くことで逆転し、見事優勝を果たした。2種目での優勝は男子初。中学2年生での達成は男女初という。

 「実感がわかなかったが、優勝カップのリボンに書かれた先輩たちの名前を見た時に、うれしさと、さらに活躍できるように頑張ろうと思った」と語る島村さん。来年の全中での活躍、アンダー世代の日本代表を目指すと次の目標を語った。

藤原会長

東京八王子南RC

東京八王子南ロータリークラブ ▼会長/藤原忠房((宗)誓願寺)▼幹事/金子貢司((有)住地ハウジング)▼副幹事/山下力人((株)やましたグリーン)▼副幹事/原雄大(メットライフ生命保険(株))■発足/1986年■会員数/85人■今年度の主な事業/創立40周年記念事業として戦後80年をテーマにした市民講座、児童養護施設の支援、中学生の職場体験等■会長標語「和になって奉仕と親睦」●藤原会長「今年は創立40周年を迎える。これを機に、個性豊かな会員と共にクラブを活性化させ、発展させていきたい」

古山会長

東京八王子東RC

東京八王子東ロータリークラブ ▼会長/古山晃((一社)寺子屋相思相考塾)▼幹事/富田明男((株)明和)▼副幹事/芦田春幸((株)テクノメイト)▼副幹事/亀山勝(司法書士亀山勝事務所)■発足/1980年■会員数/34人■今年度の主な事業/フードバンクへ米の寄付、みるみるプロジェクト、タイへ医療機器寄贈等■会長標語「これからのロータリー活動は、あなたのこれまでを決める」●古山会長「思い立った時が最良のはじめ時。ベテランと若手の融和を図り、これまで積み上げた行動の価値を向上させたい」

ゲーム症と向き合う 9月 無料公開セミナー

 平川病院がインターネット・ゲーム症に関する無料公開セミナーを9月20日(土)、市学園都市センターで開催する。

 ネットやオンラインゲームの利用をやめられず、日常生活や健康に支障が出ている人やその家族、医療・教育関係者が対象。同病院の宮田久嗣副院長がネット・ゲーム症の原因や症状、治療法について講演する。午後2時から3時30分。申込先着50人。(問)【電話】042・651・3131。

バイオリンの音色を奏でる竹内さん=本人提供

バイオリンと絵画が「協演」 市内在住竹内さん ライブ

 八王子市出身・在住のバイオリニストである竹内章人さん(45)が8月24日(日)、市内でミニライブを行う。

 竹内さんは3歳からバイオリンを始め、早稲田大学では交響楽団に所属。現在はサラリーマンとして企業に勤めながら、都内を中心にライブ演奏を行っている。昨年は140回以上のライブに出演した。

 そんな竹内さんが出演するのは、8月1日から9月1日(月)まで味楽苑ギャラリーアート並木(並木町)で行われている画家・やまのべゆいこさんによる個展内のイベント。「1日限りの納涼コラボライブ〜夏の終わりの愉快なハーモニー〜」と題し、アコーディオンの小川正浩さんと一緒に演奏する。

 開演は午後3時から。曲目は『人生のメリーゴーランド』『クラシックメドレー』『リベルタンゴ』などを予定。投げ銭とワンオーダー制。予約は不要だが、20人を超えると立ち見になる場合あり。

 竹内さんは「やまのべゆいこさんの素敵な絵と、ヴァイオリン×アコーディオンの演奏と、味楽苑さんの美味しいお料理。目と耳と舌とで楽しめるギャラリーライブですので是非いらしていただけたらうれしいです」と話している。

 問い合わせは味楽苑【電話】042・664・0528。

小阪会長

東京八王子RC

東京八王子ロータリークラブ ▼会長/小阪弘(トリックアート美術館館長)▼幹事/松本典久(おぐら葬祭(株)アットイーズ)▼副幹事/島村崇史((株)セキュリティハウス西東京)▼副幹事/小俣学((株)プライムホーム)■発足/1959年■会員数/65人■今年度の主な事業/日本で廃棄された子ども用車いす海外寄贈事業など■クラブテーマ「誠実に!謙虚に!」●小阪会長「伝統と格式をやわらげ、時代に合わせた変化も必要と感じている。多様性と包括性も考え、誠実に、謙虚に、クラブを運営して行きたい」

田中会長

東京八王子北RC

東京八王子北ロータリークラブ ▼会長/田中康夫((株)桑都コーポレーション)▼幹事/大山晃平(弁護士法人ひまわりパートナーズ)▼副幹事/大谷利雄((株)タニーエンジニアリング)▼副幹事/杢代勇蔵((株)インフィニティループ)■発足/1994年■会員数/47人■今年度の主な事業/障害者や児童養護施設への支援、地域の奉仕活動団体との連携、ふれあいコンサートの開催■会長標語「未来へ」●田中会長「年間を通して能登への復興支援に力を入れ、諸先輩から引き継いだものを未来へとつなげていきたい」

相川会長

東京八王子西RC

東京八王子西ロータリークラブ ▼会長/相川博((株)ラカータ)▼幹事/立花探(司法書士法人立花事務所)▼副幹事/森崎博之((有)森崎材木店)▼副幹事/角田昌己(アトム電気(株))■発足/1966年■会員数/115人■今年度の主な事業/生活困窮者に米の寄附、御陵参道の清掃、無料で学習支援を行う塾へ寄附、タイの小・中学校へ浄水器設置、児童対象の視覚障害者が案内する暗闇体験■会長標語「ロータリーで人生を豊かに」●相川会長「今年度は60周年。今後も成長するため、会員と共にきちんとやり遂げたい」

当時の写真を眺める石井さん

疎開先の温かな思い出 78年ぶりの再会

 足立区出身の石井郁子さん(90)は、小学3年生だった1944(昭和19)年から翌年の終戦まで集団疎開で長野県の善光寺で暮らした。尊勝院という宿坊で寝起きし、近隣の学校で地元の子どもたちと授業を受けた。

 家族のいない寂しさをぐっと我慢していたが、疎開から1週間ほどたった夜、とうとう布団の中でシクシクと泣き出してしまった。「『お国のために戦っている兵隊さんたちがいるのに、自分たちが泣いてはいけない』と教わっていた。でも最年少だった自分が泣いてしまったら、それをきっかけにみんな一斉に泣き出して大騒ぎになった」。寮母や教員、宿坊の住職らがあわててなだめに来てくれたという。「思えば宿坊では住職の家族と分け隔てなく遇されて、食事も同じものを食べさせてもらっていた」と振り返る。

 戦争が終わり東京に帰った後、結婚を機に八王子へ移り住んだ。当時を思い出すこともほとんどなくなっていた2023年、善光寺を紹介するテレビ番組に映っていた僧侶に記憶を呼び起こされた。

 それは当時一緒に暮らした住職の子どもで、現在は自身も住職を子どもに引き継いでいた。懐かしさから78年ぶりに連絡を取った石井さんを住職一家は当時と変わらない温かさで出迎え、思い出話などに花を咲かせたという。「戦争は悲惨な話も多いけれど、こんな温かな思い出もあるのよ」とほほ笑んだ。

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幼少期を満州で過ごし引揚げ船で帰国した町田典子さん(89)

戦争は人を変えてしまう 旧満州からの引揚げ船

 終戦を旧満州で迎え、引揚げ船「興安丸」に乗って帰国を果たした町田典子さん。戦争のつらい記憶は数多いが、10歳の時に1カ月以上を過ごした引揚げ船での悲惨さは、忘れられない体験として心に深く刻まれている。

 埼玉県で生まれた町田さんは、軍人だった父に呼ばれ3歳で母と共に満州へ渡った。軍務についていた父のおかげか、日本人学校に通い、スケート場や映画館など比較的不自由のない生活を送っていた。弟と妹が現地で生まれ、戦況が厳しいことは全く知らずに過ごしていた。休みの日には家の使用人に連れられて市場へ向かうのも楽しみの一つだったという。そんな日常が一変したのは、終戦が告げられ、ソ連軍が満州へ侵攻してきたときだった。軍人だった父はソ連軍に連行され、母と子どもたちは現地のホテルに収容された。

泣き叫ぶ母親水葬される遺体

 恐怖の絶えない日々を過ごし、シベリア送りの直前から「脱走」してきた父と、母、弟、妹の家族全員で満州を出発したのは1946年9月。3000人以上の日本人がひしめき合う引揚げ船内での生活は過酷を極めた。

 食糧は少なく、サツマイモのツルを海水で煮詰めたもので飢えを凌ぐ日々。町田さんは当時、栄養失調からビタミン欠乏症の一つである脚気を患っていた。全身の倦怠感から横たわり、船内をぼんやりと眺めていた。そこではわずかな配給の乾パン1つをめぐって大人たちが殴り合いの喧嘩をし、毎日のように老人や幼子が命を落としていた。亡くなった我が子を抱きしめて泣き叫ぶ母親から、男たちが無理やり亡骸を取り上げる光景が、町田さんの脳裏に今も焼き付いている。

 遺体は内地へ連れ帰ることはできず、小さなボートに遺体を乗せて沖へ流し、水葬する。「自分も死んだら、あのように海に捨てられてしまう。絶対に死ぬわけにはいかない」と強く思った。

 水葬のたびに停泊するため日本への到着は遅くなり、引揚げ船が長崎県佐世保市にたどり着いたのは同年の晩秋だったという。

 終戦から80年近く経った今でも、戦争がなくならないことに町田さんは心を痛めている。「本当のつらさは体験した人にしかわからないかもしれない。それでも、戦争は人を変えてしまうという悲惨な事実が日本にも起きていたことを、多くの人に伝えていかなければならない」と、町田さんは戦争体験を語り継ぐことの重要性を訴えている。

「飛行士の顔はっきり見えた」 上野町在住 桑原昭子さん(86)

 現在上野町で暮らしている桑原昭子さん(86)は1945年、第二国民学校(八木町/現第二小学校)への入学を控えた学童児だった。

 当時は八木町に住んでおり、第二国民学校とは目と鼻の先。春先の日中、自宅の北側の廊下で母親と2人の弟たちと過ごしていたところ、突然床に大きな黒い影が現れた。「何だろう?」と思い顔を上げると、「ダダダダダ!」という機関銃の音と共に、戦闘機が低空飛行で襲って来た。びっくりした桑原さんは、弟たちと一緒に母親に抱きかかえられ、屋内の押し入れの中に急いで避難した。

男性教諭が犠牲に

 時間が過ぎるのを待ち、何とか桑原さんたち家族はやりおおせたが、後で第二国民学校の男性教諭が窓際にいたところを撃たれて亡くなったと噂で聞いた。

 「機関銃の音は今まで聞いたことのないような音。経験したことがない怖さを覚えている」と当時の恐怖を振り返る桑原さん。「影が床に写るほど(戦闘機の高度は)低かった。飛行士の顔がはっきり見えて、その外国人の顔は忘れられない」と今も悲痛な記憶を抱いている。

戦時中を振り返る立川冨美代さん

空襲 目の前で消えた命 疎開先での戦争体験

 東浅川町在住の立川冨美代さん(93)は兵庫県神戸市で生まれ育った。10歳の時に太平洋戦争が始まり、商船に勤めていた父は海軍の軍属となり香港へ赴任。戦争の長期化が見込まれたため神戸の家を引き払い、家族で母の実家がある香川県高松市木太町へ疎開した。「若い男性は戦争に取られていたので、残った老人や女性、子どもなど近所で助け合って田んぼをやっていた」。まだ子どもということもあり、都会育ちの立川さんもすぐに農家の生活に馴染んだという。戦争はどこか遠い出来事で、ラジオからは日々、勇ましい『軍艦マーチ』などと共に戦果を報告する大本営発表が放送されていた。

惨劇の記憶

 だが徐々に戦局が厳しくなった1945年7月、ついに高松にも大規模な空襲があり、夜間に焼夷弾による激しい爆撃を受けた。立川さんの家は市街地から1Kmほど離れていたが、「ドドンと大きな音がして兄と家を飛び出したら、街が火の海になっていた」と振り返る。熱された焼夷弾の破片などを避けるため、布団を頭からかぶって近くの川に飛び込んだ。頭上を何百機もの爆撃機の機影が通り過ぎて行く光景を今でも覚えている。

 翌朝、ボロボロの格好で市街地から逃れてくる人々の列があり、周辺の農家で手分けしておにぎりや藁草履などを配った。その中で全身が焼けただれた5、6歳の男の子が一人「母ちゃん、母ちゃん」と声をあげて母親を探していた。医者も薬もないため、農家の女性たちが火傷に卵白を塗って土間に寝かせてあげた。「自分はうちわであおいであげることしかできなかった」という立川さん。母親を求める声は徐々に小さくなり、5〜6時間ほどで息を引き取ったという。

 もう一つの記憶は、やはり終戦間際のこと。家の近くに軍が接収した民間飛行場があり、米軍の艦載機がその滑走路を狙って爆弾を落として行くようになった。女学生だった立川さんは勤労奉仕で、日本の戦闘機が着陸するために滑走路に空いた穴を急いで埋める役割を与えられていた。ある時、米軍機が去り、いつものように隠れていた灌木の陰から出て滑走路で作業を始めたところ、米軍機が戻ってきて立川さんたちに機銃掃射を加えた。15人ほどいた女学生のうち2人が頭を撃たれ即死、他の者も手や脚を撃ち抜かれ重傷を負った。幸い立川さんは無傷だったが「その時の衝撃を払拭するまで20年以上かかった」という。

 「戦争中は町の片隅でも、こんな記録にも残らないような悲惨な出来事がたくさんあった。その時代を生き残った私たちが、平和な時代の尊さを伝えていかなければ」

八王子市遺族会 戦争の事実、向き合う場を 28日から戦没者遺品展

 戦後80年となる今年、結成70年の節目を迎える八王子市遺族会。戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるため、「戦没者遺品展示会」を6年ぶりに開催する。8月28日(木)から31日(日)まで、JR八王子駅南口総合事務所の多目的スペース(サザンスカイタワー八王子4階)を会場に行われる。

 2019年の初開催から6年ぶり2回目の実施となる。前回は戦没者の遺族が保管していた戦地からのハガキや軍服、死亡通知書など200点以上が集まった。開催時には「毎年やってほしい」という声も寄せられたが、「それぞれの家庭で遺品を管理している方の協力がなければできないこと。保管場所も含めて継続開催はなかなか難しかった」と話すのは、長年会長を務めた富田喜代志さん(84)。

 今回、開催に踏み切ったのは、節目の年であることはもちろん、戦時中を知る会員がどんどん減り、残る遺族も戦没者から世代が遠ざかっていく中で「多くの若い人に知ってもらいたい」という強い思いからだ。

 今回も遺族会の会員に協力を呼びかけ、一つひとつ展示する遺品を集めている。遺品のほかにも、パネル展や八王子空襲のDVD上映、空襲体験者による語り部のビデオ上映も予定している。

会存続の意義

 八王子市遺族会は1955(昭和30)年に結成された。当時は約2000人いた会員も今では500人ほどに減少。近年では全国的にみても解散する遺族会も増えてきている。

 終戦直後は未亡人となった主婦たちが励まし合う場になっていたり、近年は追悼式を行ったりと時代ごとに役割を担ってきた遺族会。富田さんは「国や行政に意見や要望を提案する時に個人では限界がある。高齢化で仕方ない部分はあるが、会を存続させることの意義は大きい」と話す。

 今年、新会長に就任した馬場貴大さん(46)は自身の曽祖父がシベリア抑留で餓死したという戦没者遺族。「戦争の事実に向き合う機会を閉ざしたくない。弔意を表す動きを止めないことが大切。遺品展もその一つだと考えています」と馬場会長は話す。

 問い合わせは同会【電話】042・624・8760((水)と(木)の午前10時から午後4時まで受付)。

八王子空襲後の市街地写真。1945年10月、斉藤五郎氏が八日町で撮影。中央の道路は甲州街道。八王子市郷土資料館蔵

八王子と戦争 今なお残る記憶 八王子を襲った2つの惨劇

八王子空襲

 1945年8月2日未明、太平洋戦争末期の八王子市は、米軍のB―29爆撃機約170機による大規模な空襲に見舞われた。東日本の鉄道交通の要衝であり、軍需工場関係者が多く居住していたことが、空襲の理由と考えられている。約2時間にわたる焼夷弾攻撃により、市街地の大部分が焼け野原と化し、約450人の尊い命が失われ、約2000人が負傷する大惨事となった。市民の暮らしを一瞬にして奪ったこの日の記憶は、今もなお、平和の尊さを伝える証言として語り継がれている。

湯の花トンネル列車銃撃事件

 その3日後にあたる8月5日正午過ぎ、終戦間近の八王子で、もう一つの悲劇が発生した。新宿発長野行きの満員列車が、湯の花(いのはな)トンネル東側入口付近で米軍戦闘機P51の機銃掃射を受けたのである。この日本最大と言われる列車銃撃事件により、52人以上が死亡し、133人が重軽傷を負った。事件後、地元の青年団が犠牲者を供養するための供養塔を建立。この「いのはな慰霊碑」が平和を語り継ぐ場となっている。慰霊の会は毎年8月5日を供養の日とし、犠牲者の冥福を祈っている。