八王子 社会
公開日:2025.08.14
空襲 目の前で消えた命
疎開先での戦争体験
東浅川町在住の立川冨美代さん(93)は兵庫県神戸市で生まれ育った。10歳の時に太平洋戦争が始まり、商船に勤めていた父は海軍の軍属となり香港へ赴任。戦争の長期化が見込まれたため神戸の家を引き払い、家族で母の実家がある香川県高松市木太町へ疎開した。「若い男性は戦争に取られていたので、残った老人や女性、子どもなど近所で助け合って田んぼをやっていた」。まだ子どもということもあり、都会育ちの立川さんもすぐに農家の生活に馴染んだという。戦争はどこか遠い出来事で、ラジオからは日々、勇ましい『軍艦マーチ』などと共に戦果を報告する大本営発表が放送されていた。
惨劇の記憶
だが徐々に戦局が厳しくなった1945年7月、ついに高松にも大規模な空襲があり、夜間に焼夷弾による激しい爆撃を受けた。立川さんの家は市街地から1Kmほど離れていたが、「ドドンと大きな音がして兄と家を飛び出したら、街が火の海になっていた」と振り返る。熱された焼夷弾の破片などを避けるため、布団を頭からかぶって近くの川に飛び込んだ。頭上を何百機もの爆撃機の機影が通り過ぎて行く光景を今でも覚えている。
翌朝、ボロボロの格好で市街地から逃れてくる人々の列があり、周辺の農家で手分けしておにぎりや藁草履などを配った。その中で全身が焼けただれた5、6歳の男の子が一人「母ちゃん、母ちゃん」と声をあげて母親を探していた。医者も薬もないため、農家の女性たちが火傷に卵白を塗って土間に寝かせてあげた。「自分はうちわであおいであげることしかできなかった」という立川さん。母親を求める声は徐々に小さくなり、5〜6時間ほどで息を引き取ったという。
もう一つの記憶は、やはり終戦間際のこと。家の近くに軍が接収した民間飛行場があり、米軍の艦載機がその滑走路を狙って爆弾を落として行くようになった。女学生だった立川さんは勤労奉仕で、日本の戦闘機が着陸するために滑走路に空いた穴を急いで埋める役割を与えられていた。ある時、米軍機が去り、いつものように隠れていた灌木の陰から出て滑走路で作業を始めたところ、米軍機が戻ってきて立川さんたちに機銃掃射を加えた。15人ほどいた女学生のうち2人が頭を撃たれ即死、他の者も手や脚を撃ち抜かれ重傷を負った。幸い立川さんは無傷だったが「その時の衝撃を払拭するまで20年以上かかった」という。
「戦争中は町の片隅でも、こんな記録にも残らないような悲惨な出来事がたくさんあった。その時代を生き残った私たちが、平和な時代の尊さを伝えていかなければ」
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