八王子 社会
公開日:2025.08.14
戦争は人を変えてしまう
旧満州からの引揚げ船
終戦を旧満州で迎え、引揚げ船「興安丸」に乗って帰国を果たした町田典子さん。戦争のつらい記憶は数多いが、10歳の時に1カ月以上を過ごした引揚げ船での悲惨さは、忘れられない体験として心に深く刻まれている。
埼玉県で生まれた町田さんは、軍人だった父に呼ばれ3歳で母と共に満州へ渡った。軍務についていた父のおかげか、日本人学校に通い、スケート場や映画館など比較的不自由のない生活を送っていた。弟と妹が現地で生まれ、戦況が厳しいことは全く知らずに過ごしていた。休みの日には家の使用人に連れられて市場へ向かうのも楽しみの一つだったという。そんな日常が一変したのは、終戦が告げられ、ソ連軍が満州へ侵攻してきたときだった。軍人だった父はソ連軍に連行され、母と子どもたちは現地のホテルに収容された。
泣き叫ぶ母親水葬される遺体
恐怖の絶えない日々を過ごし、シベリア送りの直前から「脱走」してきた父と、母、弟、妹の家族全員で満州を出発したのは1946年9月。3000人以上の日本人がひしめき合う引揚げ船内での生活は過酷を極めた。
食糧は少なく、サツマイモのツルを海水で煮詰めたもので飢えを凌ぐ日々。町田さんは当時、栄養失調からビタミン欠乏症の一つである脚気を患っていた。全身の倦怠感から横たわり、船内をぼんやりと眺めていた。そこではわずかな配給の乾パン1つをめぐって大人たちが殴り合いの喧嘩をし、毎日のように老人や幼子が命を落としていた。亡くなった我が子を抱きしめて泣き叫ぶ母親から、男たちが無理やり亡骸を取り上げる光景が、町田さんの脳裏に今も焼き付いている。
遺体は内地へ連れ帰ることはできず、小さなボートに遺体を乗せて沖へ流し、水葬する。「自分も死んだら、あのように海に捨てられてしまう。絶対に死ぬわけにはいかない」と強く思った。
水葬のたびに停泊するため日本への到着は遅くなり、引揚げ船が長崎県佐世保市にたどり着いたのは同年の晩秋だったという。
終戦から80年近く経った今でも、戦争がなくならないことに町田さんは心を痛めている。「本当のつらさは体験した人にしかわからないかもしれない。それでも、戦争は人を変えてしまうという悲惨な事実が日本にも起きていたことを、多くの人に伝えていかなければならない」と、町田さんは戦争体験を語り継ぐことの重要性を訴えている。
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