太平洋戦争とともに 光明寺前住職 北條祐勝さん
戦争中は疎開してきた児童を受け入れ、分散授業の場ともなっていた光明寺。その前住職・北條祐勝さん(79)も卒業生の一人だ。
本郷村などが横浜市に編入され、校名が「横浜市立本郷尋常高等小学校」と改称された1939年に入学。その2年後には小学校令が改正されて国民学校令が公布され、「横浜市立本郷国民学校」と改称、太平洋戦争が始まり、教育の軍事色が強まっていく時代の中で過ごした。
校舎の隣は、海軍の燃料廠。「4年生のころは燃料廠の食堂に残飯を取りに行き、学校で飼っていた豚の餌にしていた」と振り返る。
戦争も激しさを増し、5・6年生になると近隣の小学校の男子児童とともに戸塚小学校に集められ、航空少年団としての練習を受けた。「竹やりを持って地面に寝そべり、人が来たら下から突けと教わった。勉強道具は持たずに学校へ行っていた」。戦地に赴いている地区内の農家で、麦踏みや苗代作りなどの勤労奉仕をした記憶もある。「手伝うとキャラメルがもらえて嬉しかった」と話す。
そのころ光明寺をはじめ、地区内の寺などが分散授業の場となっていたが、若い男性は出兵しているため、教員は若い女性か年配者ばかり。半分以上は18歳くらいの代用教員で「友達のようだった」という。本郷小学校の思い出は戦争とともにある。
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