「あの年の夏のことは決して忘れられない思い出ですよね。全てを捧げていましたから」――。1950(昭和25)年の高校野球夏の選手権予選神奈川大会を制した県商工(当時は神奈川商工)高校の遊撃手として甲子園の土を踏んだ小出廣さん(82)。鞄から取り出した古びたスクラップブックを開き、セピア色の写真に目をやりながら、ゆっくりと話し出した。
幼少期から「『三角ベース』や『ゴロベース』が遊びだった」という少年は中学時代にも活躍。当時、強豪校として名を馳せていた同校に進学した1年時の夏、チームは県大会決勝まで駒を進めるも、その年、全国優勝することになる湘南高校に惜敗している。
スタンドの応援席でその一戦を見守り夢叶わず泣き崩れる先輩の姿に、「何とか甲子園に」という思いが沸々を湧き上がった。チームが新体制となると猛練習に明け暮れる日々。スクラップブックには「別メニューでノックの嵐を受けた」と記されている。
「親分」擁し悲願
48校が出場した翌年夏の県大会、後にプロ野球でも活躍した大沢啓二投手を擁する同校はトーナメントを順当に勝ち進み、悲願の甲子園出場へ王手をかけた。ゲーリック球場(現在の横浜スタジアム)で行われた希望ヶ丘高校との決勝戦は神奈川の高校野球史に残る投手戦。スコアボードには終盤まで「0」が並んだが、8回裏に1点を奪った県商工が勝利し19年ぶりの甲子園出場を決めた。「応援団に一礼し頭を上げた時には嬉涙で目は潤んでいたが、心の方は遠く甲子園に飛んでいた」という。
甲子園へ向かうその日、小出さんらメンバーを乗せた列車が横浜駅のホームに入ると「待ってました」とばかりに音楽部が校歌や行進曲を演奏した。声援に応えようと、メンバーが窓から顔を出すと目の前には大勢の級友や先輩の姿があり、列車が動き出すと力強いワシントンポスト行進曲の演奏で送り出され、大阪へ向かう汽車の人となった。「今でもその時の人々の顔が走馬灯のように流れ感慨深い」
商工高校はそれまでに2度、選手権大会に出場していたものの、初戦で敗退していた。聖地での初勝利を期待され臨んだ1回戦は仙台一高と対戦。14対3で勝利したこの試合、小出さんは3塁打含む2安打し3打点を挙げている。宇都宮工と2回戦では先制するも逆転を許し4対6で敗れた。
甲子園の土持帰り元部員の墓にまく
小出さんが1年生の冬、事故が起きた。「砂利だらけだった」というグラウンドを改良するため、山から土を運び出す作業をしていた部員のひとりが崩れた土砂に埋まり命を落とした。
宇都宮工に敗れた試合後、メンバーは「甲子園の土」をかき集めた。記者にその理由を問われ、「亡くなった部員の墓にまくためだ」と答えた記憶があるという。
いまでは甲子園の1場面として定着したシーン。その起源は諸説あるが「もしかしたら僕たちが最初なんじゃないかな」。そう話す。
「古豪」と呼ばれ長い年月が経った。「夏になると母校が気になるんです」。1年生の夏、涙する先輩の姿に心が揺れた球場の応援スタンド。原点ともいえる場所で後輩に声援を送るのが恒例だ。「チーム一丸となって1つでも多く勝ってほしい」。県商工は12日に地元・サーティーフォー保土ケ谷球場で初戦を迎える。
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