連載第一回 宮前歴史探訪記 向丘の交通【1】 乗合自動車が走る
大正中頃までの平・菅生は、米や麦の生産を中心にした農村地帯であった。野菜は自家で消費する程度を栽培し、味噌や醤油の調味料も自家製。魚や豆腐などは、たまに来る行商から購入する程度で、ほぼ自給自足に近い生活だった。
やり繰りは、米や麦を出荷し得られる年数回の現金収入が頼みの綱であった。その為、溝口や他の町に買い物に出掛けることも殆ど無く、出掛けたとしても歩いて行くのが常。その様な状況の此の地に乗合馬車を乗り入れる事はなく、乗り入れたとしても乗る人はいなかったと思われる。
しかし大正後半から昭和に入ると、東京から野菜や果物の進んだ栽培技術が入ってきて、多種の野菜の栽培が可能になり品質も向上した。更に、筍や栗、桃、柿なども合わせて栽培、これらを東京や川崎、溝口などの市場に出荷し、現金収入が年間を通して入ってるようになった。
それに伴い一部では、町まで買い物や商いに出掛ける機会が増え、足が必要になってきた。それに目を付けたのが高津町で自転車店を営んでいた安井忠之氏であった。彼は自動車での運輸事業に乗り出し、溝口から向丘村の上作延、長尾、平を通り、菅生の中心地である蔵敷までの路線を開業。昭和3年から乗合自動車を走らせた。ただ乗合自動車に乗っていたのは、生活にゆとりのできた一部の人達だけで、一般の人達はまだまだ溝口まで徒歩や自転車で行っていたそうだ。
あるお爺さんは「自動車に乗る金があったら、その金で孫に土産でも買ってきてあげるよ」と言って溝口まで歩いて往復していたという。/宮前の歴史を学ぶ会・杉田墾生
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