太平洋戦争開戦時11歳だった宇佐美ミサ子さんの青春時代は、戦争のまっただなか。教科書らしい教科書もなく、新聞紙1枚での授業。当時生粋の軍国少女だった宇佐美さんは、日本が負けることなど想像だにせず、酒匂の印刷局で勤労奉仕に精を出していた。
米軍機に狙われる毎日。工場のガラス窓からは、動くものを狙って急降下してくる飛行機が鮮明に見えた。8月15日未明の空襲。旧緑町に住んでいた宇佐美さんは、一人で布団を被り逃げ惑った。夜が明け、青橋方面から家へ戻ると、家屋を守るために残り、憔悴しきった母が玄関先にしょんぼりと座っていた。
大人たちに混じり聞いた玉音放送。灯火管制が解かれた自宅には、ほんのりと広がる明るい世界が待っていた。サイレンの鳴らない静寂。「まるでファンタジーの世界だった」。宇佐美さんの戦争は終わった―。
そして始まった”戦後”。翌16日、人でごった返す小田原駅へ出かけると大量のビラが撒かれていた。「戦争を続けよう」、「朝鮮独立万歳」。何かが音を立てて変わり始めていた。
「骨の髄まで軍国主義に染まっていた」宇佐美さんたち女学生に、友人の一人が投げかける。”勉強の話をしようよ”。「あたしたち、勉強してこなかったから、世の中のことを何一つ知らないんだ」。自由―。それが民主主義らしい。「授業を受けたくなかったら、受けなくてもいいんだって」。女学生たちは冗談めかして話し合った。世の中の仕組みを知りたいと宇佐美さんは父の蔵書を読みあさる。16歳で代用教員となり、年の変わらない生徒たちに未来を説いた。
大学入学後、教員免許を取得。40歳になったのを機に、女性史や地域史の研究をはじめ、今なお精力的に執筆活動を続けている。