終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第13回は下曽我空襲を経験した大西賢明(よしあき)さん(81)。今も自宅に残る砲弾の破片が、当時の生々しい惨状を物語る。
1945年8月5日。朝から真夏の日差しが照りつけていた下曽我村(現在の下曽我駅周辺)に、空襲警報が鳴り響く。
だが、連日のようにサイレンが鳴っても機影すら見ることがなく、もはや警報もイソップ童話の「オオカミ少年」のよう。下曽我国民学校(現・下曽我小学校)の6年生だった大西さんは、「またいつものこと」と避難することもなく、平然と遊んでいた。
ただ、この日は様子が違った。耳をつんざくような轟音とともに、米軍機が編隊を組んで急降下してきたのだ。「地上からもパイロットの顔が分かるほどの低空飛行だった」。にわかに戦場と化した下曽我村。血相を変えた母親に連れられ、上空から機銃掃射の薬きょうが落ちてくる中を弟と妹の4人で城前寺方面の防空壕に走った。
敵機の狙いは、下曽我駅に積まれてあった松根油(しょうこんゆ)。太平洋戦争末期、航空機の燃料不足を補おうと松の根から抽出した代替燃料で、貨物ホームにはドラム缶が並んでいた。「そんな情報すら、敵に把握されてしまっていた」ことが衝撃だった。
悪いことに、ドラム缶の隣には米軍の敵前上陸に備え、曽我山に構築された陣地で使用する砲弾も保管されていた。これに勢いよく燃え上がる炎が引火。砲弾は激しく爆発、辺り一面にビュンビュン飛び散った破片が頭に直撃したことで犠牲者が出た。また、駅の地下道に逃げ込んだにもかかわらず、コンクリート壁に跳ね返った機銃掃射の弾にあたり命を落とした線路工夫もいた。
駅から約200mの距離にある大西さん宅の庭には破片が落ちていたものの、幸い難を逃れた。わずか数軒先の家では、機銃掃射を受け、住人が撃たれて犠牲となった。「後に聞いた話だと、その家は日章旗を掲げていたらしい。だから、米軍の標的になったのかな」
毎年、梅まつりでにぎわう下曽我。「ここも戦場だったんだ」と、7kgを超える砲弾の破片に目を落とした。
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