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港北区

公開日:2025.05.18

医学生が見た地獄絵図

 綱島東在住の椎橋忠男さん(98)は、政治家や医者として地域の為に尽力してきた名士・椎橋家の9代目として、大豆戸町で生まれ育った。大綱小学校、神奈川県立横浜第二中学校(現在の横浜翠嵐高)、基礎医学教室(南区浦舟町)に通い、医療経験を積んだ後、椎橋医院の院長として地域の健康を支えてきた。

 生まれた時は「大正ロマンでのどかだった」と振り返る。しかし、ほどなくして満州事変など、さまざまな事件が起こる。ラジオから流れてくる情報を耳にして、その悲惨さを知っていたが、「離れた場所だったから、どこか他人事のようだった」と口にする。

 ところが二・二六事件の後から、戦争を身近に感じるように。1941年に太平洋戦争が始まり、学徒動員により相模原市の陸軍工場で運搬作業を手伝った。

兵役免除、軍医の助手に

 19歳の時には、身長や体重の測定や内科健診などを行う徴兵検査を受けた。当時は戦況が厳しく、軍医の養成が求められていた。受検者の中で唯一の医学生だった椎橋さんは、軍医の助手をするように指示を受け、兵役が免除された。

 自宅上空にはB29爆撃機が飛んでおり、八杉神社の裏に高射砲が設置されていた。医者の家庭だったため、軽傷の兵隊が自宅に運ばれてくることもあったという。

「痛い」と泣く声響く

 最も衝撃的だった出来事は、1945年5月29日午前9時20分頃に起こった横浜大空襲だという。基礎医学教室の校舎から空を見上げ、B29から焼夷弾が投下される様を目の当たりにした。次の瞬間、すぐに周囲の民家に燃え移り横浜が火の海に。学生がバケツリレーで窓から水をかけていたが、校舎の中でも「死にそうになるほど、ものすごく熱かった」とその時の状況を語る。

 翌日、医学生として病院で患者を診るように指示が出された。やけど患者が多く、皮膚がただれて骨が見えている人、中には炭化している人の姿もあった。あちこちで「痛いよ」と泣く声が聞こえてきて、「阿鼻叫喚の地獄絵図のようだった」と話す。施設内には薬がなく、医学生らはタンニン酸液に浸したガーゼを皮膚に当てて乾かしていた。

 その翌日、病院に着くと患者の顔ぶれが違っていた。「前日診た人が亡くなって別の患者で満床になっていた。その状況が3日ほど続いた」という。「(投下された時間が違えば)自分も同じような状態だったかもしれない」とつぶやく。

 終戦後は、第二内科医局や教職員向けの病院などで勤めたのち、父の後を継いで椎橋医院へ。かかりつけ医としての地域医療に従事した。

 「最中は当然のことで特別な境遇だと思わなかった。今は、平和のありがたみを感じる」と感慨深そうに話した。

※  ※  ※

今年で戦後80年。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。

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