港北区 社会
公開日:2025.06.05
戦争は「ありのまま」に語れ
高田西在住 栗原茂夫さん
1935年4月13日、開拓移民の子として南洋サイパン島南村ダンダンに生まれ、終戦後数カ月まで島内で過ごした栗原茂夫さん(90)。自身が経験した第二次世界大戦中の過酷な体験と、その記憶を次世代に伝えていくことの重要性を力強く訴える。
島内での空襲が過激さを増したのは1944年6月から。当時9歳の栗原さんは、洞窟(防空壕)の外で空襲が始まると素早く地面に伏せ、両手で目と耳を塞いだという。「爆風で目が飛び出たり、鼓膜が破れたりするから」。夜に一家で移動中に砲弾が間近で炸裂したこともあった。ジャングルの巨木が一家を守ったが、砲弾の衝撃は、のちに「軽度難聴」という所見として、栗原さんの聴力に生涯にわたる影響を与えた。
家族の喪失と帰国の途
6月26日未明。父と伯父は、食料と水を求めて洞窟を出た。しばらくして栗原さんは、遠くから乾いた2発の銃声が聞こえた”気がした”という。結局、洞窟から出たきり還ってこなかった父と伯父。行方は不明のまま、命日は6月26日とされた。あの時聞こえた銃声が直接の原因か定かではない。しかし「国防色の国民服が、遠目には日本兵に見えたのでしょうか」と追憶する。
その約1カ月後、食糧不足による飢餓で2歳と5歳の弟2人が相次いで命を落とした。この時アメリカ軍占領下の1944年8月。6人家族だった栗原家は、母・栗原さん・弟の3人になった。戦争はあと1年続いた。
終戦を迎え、1946年1月9日、サイパンから日本へ向かう船上では、母の悲痛な叫びが響き渡った。「父ちゃんさよなら」「輝夫も勝もさよなら」。浦賀港に着くと、季節は冬だった。
記憶の継承
帰国後、国民学校でサイパン島から帰ってきたことを伝えると「嘘だ」と言われたことがあったという。「その子の親が『あの島にいた人は全員玉砕したのだから』と言っていたようで」。戦時下の日本が、国民に伝えていた情報と現実との隔たりは計り知れない。
戦争体験を”ありのまま”に伝えることを使命としている栗原さん。自身の経験を、重さを変えず、相手に分けるような気持ちで語り継いできた。「じきに体験者がいなくなる。新しい語り手は、実際にあったことを都合のいいように解釈しないこと。ありのままを後世に伝えてほしい」と主張する。
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今年で戦後80年。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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