港北区 社会
公開日:2025.07.10
京都から見た、戦争の記憶
大豆戸町在住 藤本志壽子(しずこ)さん
”ズズズーン”と下から突き上げるような地響きがした。
藤本志壽子さん(93)は大阪への空襲が始まった1944年、小学生だった。当時は京都府宇治市で暮らしており、爆撃は目の当たりにしていないものの、「子ども心に怖かった」と戦慄した感覚が鮮明に残っている。
被災した人が、20Kmから30Km程ある京都まで徒歩や大八車で逃げてきた。被災地では周りを取り巻くように爆弾が投下され、被災者らは逃げ場もなく追い込まれたという。後から「京都は神社があるから避けられた」と知ったが、いつ爆撃が起こるか分からず、常に恐怖と隣り合わせだった。
外を見ると艦載機が低空飛行していた。一人乗りの小型飛行機で、操縦士の表情が見える程の距離。2階の窓を開けて見ていた人が機銃掃射で撃たれるという悲劇が起こった。
通っていた小学校では、4年からアルファベットを習うが「敵国語だから」と廃止。校門の御真影に最敬礼することは必須だった。体操の時間には、武道の心得として薙刀の稽古があったが、戦争が始まると竹やりの訓練に変わった。戦争で工場が留守になるため、6年の卒業間際になると半強制的に働くように。海軍熱糧食(携行食として使用した栄養補助食品)を製造した。
憲兵からは、人間性を無視したような言葉が使われていた。近所の青年は徴兵検査の時に、「肺が腐っとる」と言われ失意に陥り、喀血の上、急死。「人のことを道具として扱われるような感覚だった」
言論の自由はなく、私服の憲兵が街を歩き人々の会話を監視していた。戦争や政府に対して少しでも批判的な言葉が漏れると憲兵に連れ去られてしまう。話の内容を密告する人もいたという。「心から信用できる相手でないと、個人的な話すらできなかった」と監視の目を気にする日々。
玉音放送を聞いた時は、足が震えるほどの衝撃と恐怖、「どうなるのか」と不安を覚えた。負けないと信じ込まされており、敗戦の事実をすぐに理解できなかった。しばらくして戦争が終わったことの嬉しさが少しずつこみ上げ、夜間の灯り漏れ防止カバーを外せるようになり、ようやく安堵感と解放感が訪れた。
海軍だった男性と結婚。義父は満州から舞鶴港に引き上げ船が入る度に、義弟の安否を確認していた。しかし、義弟は満州の国境付近で終戦翌日、ソ連軍との交戦で戦死。会ったことのない義弟だが、「戦争のことを伝え、亡くなった人々の声となることで報われるのでは」とぽつり。
現在の紛争の映像などを見ても、「他人事じゃない」と感じる。「戦争は本当に悲惨。これ以上大きくならないで」と切なる思いを口にした。
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