港北区 社会
公開日:2025.07.24
戦後80年 語り継ぐ記憶
「まだやるつもりか」
大倉山在住 吉原秀夫さん
「これを見てほしい」。そう言って桐箪笥の一部を見せる大倉山在住の吉原秀夫さん(95)。横浜大空襲よりも数カ月前、低空飛行の戦闘機から放たれた銃弾が、大倉山の自宅に命中した。直前に空襲警報があったのか、幸い家族は防空壕に逃げ無事だったというが、その銃弾による傷痕はここ横浜でも"戦争があった"ことをまざまざと見せつけてくる。母の嫁入り道具を傷つけた弾は、すぐに警察と消防によって回収された。
学徒動員
戦争を肌で感じるようになったのは、大綱尋常高等小学校1年生の時。約2週間、日本海軍厚木基地へ滑走路の修復作業に出向いたことがあった。「基地で出されたご飯が、自分たちのものは赤くて。赤飯かと思って喜んだよ」。もちろん赤飯ではなく、飛行兵が白飯、吉原さんらは高粱飯だった。
県立工業学校(現:県立神奈川工業高等学校)建築科に進学して間もなく、時代は学徒動員の真っただ中で、鶴見市場にある自動車工場でトラックの木材部品や弾薬箱の製作に従事した。月給は50円。その半分は学費に消え、お金があっても配給切符がなければ物が買えないという物資不足の深刻さを目の当たりにした。工場の敷地内にはアメリカ兵と思われる捕虜もみられたという。
5月29日昼の暗がり
横浜大空襲の日も、朝から工場で働いていた。戦火を逃れることができたが、横浜方面に黒煙が上っているのを見た。出勤時に乗った電車の線路を歩いてたどり、両親と妹がいる家を目指す。「昼間のはずなのに、日食のように暗くなった空を忘れられない」。必死に歩いた。帰宅した吉原さんが目にしたのは、焼け野原となった大倉山の駅周辺と、焼失した自宅だった。幸い、両親と妹は防空壕に避難し、無事だった。「何が起こったかは覚えている。ただどんな気持ちだったとかはあまり覚えていなくて」。淡々と当時の状況を語る。
空襲とは別の戦争体験も追憶する。菊名の方面から発射された、敵機に対抗するための高射砲。「日本軍からの攻撃だけど、自分たちに向かってくるようだった」。あの光景がいまだに脳裏にこびりついている。
「ピンとこなかったが、終わったことは分かった」。玉音放送を耳にしたのは家の修理のため木材を買いに出ていた時。数日後、日本軍が戦争続行の示威飛行をする様子を見て驚き、思った。「まだやるつもりか」
当時を振り返り吉原さんは「戦争はあってはならないこと」と強調する。「日本もあの時止められなかった。二度と繰り返してはいけない」と静かに語った。
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